【豊臣兄弟!】なぜ茶々は「親の仇」秀吉の側室になった?史実では寧々との対立も創作、実は共闘していた
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第39話は『茶々の本心』。
前回の予告では、秀長(仲野太賀)が秀吉(池松壮亮)に、茶々(井上和)を娶るように薦めている様子。
余計なことを…。
「いくつ離れてると思うとおる!?寧々(浜辺美波)がどれほど傷つくか!」と驚愕する秀吉。
「からかうのもいい加減にせい!」と秀長に弓矢を向ける茶々。
そんな、当事者二人の姿が映し出されました。
「羽柴と織田と浅井の血が一つとなるのじゃ!」と秀長。
第12回『小谷城の再会』で、赤ん坊の茶々を「かわいいのぉ」と抱いていた秀吉の姿を思い浮かべると、思わず「秀長よ、いくつ離れていると?」と思ってしまいました。
史実では、「秀長が茶々を側室(別妻)※と迎えるよう秀吉に勧めた」という確かな史料などはないようです。(懐妊した茶々の産所のため、淀城の改修を担当したとか)
以前は「寧々(北政所)VS茶々(淀殿)」は激しく敵対し、茶々を悪女とする説も多かったようです。
けれども、近年の研究からは「対立は後世の創作」で、少なくとも秀吉存命中は“役割分担をしつつ、豊臣家を支える協力関係にあった”可能性が高いといわれています。
なぜ、茶々は親の仇である秀吉の側室(別妻)になったのか、正室・寧々と茶々の関係はどのようなものだったのか。
ドラマの気になる展開と史実とを比べてみました。
※別妻:正妻に準ずる地位
茶々が側室になった時期には諸説あり
茶々が秀吉の側室(別妻)になった時期には諸説あるようです。
・天正16年(1588)ごろ
先週の『秀長の国』で、秀長が大和郡山入りをして郡山と城下町の整備を薦めている、天正13年頃から3年後の天正16年頃説。
天正17年5月27日に茶々が秀吉との子、長男・鶴丸を出産した時期から逆算したという説です。
・天正11年(1583)〜14年ごろ
近年の研究では、茶々の母・お市が再婚相手の柴田勝家とともに北ノ庄城で自害し、三姉妹が秀吉の庇護下に入った姫路城滞在時の天正11年頃という説があるようです。
そして、『言経卿記』(ときつねきょうき)の記録によると、天正14年10月1日頃ともされています。
お市の次女・初に仕えた女房の『渓心院文 』(けいしんいんのふみ )という覚書には、秀吉から側室(別妻)の申し込みがあった際、「自分より先に妹の初と江を嫁がせて欲しい」と、長女らしい要求をしたそうです。

