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【豊臣兄弟!】なぜ茶々は「親の仇」秀吉の側室になった?史実では寧々との対立も創作、実は共闘していた

【豊臣兄弟!】なぜ茶々は「親の仇」秀吉の側室になった?史実では寧々との対立も創作、実は共闘していた:3ページ目

常に正妻の寧々を一番にしていた

寧々VS茶々の対立イメージは、主に『絵本太閤記』など江戸時代の書から広まったといわれています。

茶々は、稀代の悪女・策略家・豊臣を滅亡させた女と噂され、さらには、「蛇女になった物語」まで誕生。

しかし、同時代の一次史料に「二人が熾烈な争いを繰り広げた」「寧々が茶々を憎んだ」など、直接記したものは確認されていないそうです。

けれども、秀吉は茶々を側室(別妻)としつつも順列を重んじ、常に寧々を大切にしていたと感じる出来事は残っています。

たとえば、秀吉の自分筆の書状は、100通前後ともいわれていますが、そのうち茶々(淀殿)宛は数通ですが、寧々(北政所)宛はずば抜けて多いそう。

秀吉にとって寧々は、長年連れ添った正室であり最も信頼できる人物というだけではなく、家政・人質管理・朝廷との関係なども任せられる頼れるパートナーとしてみなしていたようです。

そのため日常的な気遣いの内容のみならず、家族のことや戦況ほ報告など、幅広い内容の手紙を送っていました。

寧々へは気遣ったり甘えたり

たとえば、文禄2年(1593)に朝鮮出兵の本営から送った手紙は、「淀殿が第二子を懐妊したことを聞いて喜ぶも、子がでいない正室の寧々に気を遣った内容」になっています。

又にのまるとの(二の丸殿)、ミもちのよし、うけ給候、めてたく候、われわれは小ほしく候はす候まま、其心へ候へく候……

現代語にすると、「二の丸(淀君)の懐妊を聞いたけれども、自分はことさらに子は欲しいとは思っていないのだ」

……と、子供ができない寧々を気遣っているような内容を書いています。

さらに、「この間はすこしかいき(咳気)いたし候」などと、「ちょっと風邪ひいてしまった」などと書いて、ちょっと寧々を心配させるような甘えるような追伸も。

ドラマの中の秀吉を彷彿させますね。

常に「寧々ファースト」

また、秀吉一世一代の催し物として有名な『醍醐の花見』などでも、もちろん「寧々ファースト」。

記録に残る醍醐の花見当日の輿の順は、北政所(寧々)が先頭、西の丸殿(茶々)が2番目でした。3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、前田利家正室・まつが続いたそうです。

その席では、北政所の次に盃を受けるのは「わたし!」と、淀殿と松の丸殿が争いになり、まつが間にはいってたしなめたという話もあります。

4ページ目 茶々なぜ秀吉の側室になったのか

 

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