【豊臣兄弟!】女性や子供まで大量処刑…なぜ“人たらし”の秀吉(池松壮亮)は残虐な暴君へ変貌したのか:2ページ目
聚楽第落書き事件。天下人となった秀吉の恐怖
1590年(天正18年)、秀吉は関東の雄・北条氏を降し、事実上の天下統一を果たしました。実はこの前後から、秀吉の残虐性がさらに際立っていくのです。
1589年(天正17年)、秀吉の京都政庁である聚楽第の白壁に、何者かが書いた秀吉を批判する落書が発見されました。これが聚楽第落書き事件です。
激怒した秀吉は犯人捜しを命じますが、ついに真犯人は見つかりませんでした。秀吉は、聚楽第を警護していた家臣17人を職務怠慢とし、鼻削ぎ耳切りにした上で磔刑に処します。
さらに首謀者と疑われ処刑された尾藤道休(びとうどうきゅう)が暮らしていた、本願寺寺内町の町民63人をくじ引きで選んだうえで磔にして処刑。それでも怒りの収まらない秀吉は、大坂にも詮索の手をのばし最終的には133人を処刑しました。
この事態に『多聞院日記』の筆者の一人興福寺多聞院英俊は、「運次第也、さてさて不憫事也、一向無罪仁共也、アサマシアサマシ」と記しています。
この事件で重要なのは、事実上の天下人となった秀吉にとって、自らの権威を守るためにはどんな苛烈な処置も厭わなかったということです。
かつて「人たらし」と称された秀吉は、いつしか人々を恐怖によって従わせる存在になっていたのです。
関白秀次切腹事件とその一族の粛清
聚楽第落書き事件の6年後、1595年(文禄4年)6月に、人々を震撼させる事件が起きます。
秀吉から関白の座を譲られ聚楽第にいた豊臣秀次(山田涼介)が、突然謀反の罪より高野山へ追放のうえ自害して果てたのです。
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しかし秀吉はそれだけでは満足せず、秀次一族の根絶をはかります。
8月には三条河原に晒された秀次の首塚の前で、秀次の遺児(4男1女)と側室・侍女ら40名近くを斬首。数時間かかったとされる処刑が済むと、大量の遺体をまとめて一つの穴に投じるという残忍極まる処置がとられました。
またその累は秀次の家臣や与力大名にまでおよび、多くの人々が斬首・自害・改易などに処されました。そのなかには秀吉の盟友であった前野長康(渋谷謙人)らも含まれています。
このほかにも朝鮮出兵時には、淀殿(井上和)に仕えていた侍女ら30余人を自分の留守中に、みだらな男女関係があったとして大量に処刑しています。



