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『豊臣兄弟!』千利休(吉岡秀隆)ついに登場!なぜ信長や秀吉は「茶の湯」にここまで傾倒したのか?

『豊臣兄弟!』千利休(吉岡秀隆)ついに登場!なぜ信長や秀吉は「茶の湯」にここまで傾倒したのか?:3ページ目

信長、秀吉を魅了した千利休

利休は堺の商家に生まれ、塩魚を扱う魚問屋を営んでいたといわれています。しかし、次第に茶人として名を高め、織田信長、そして豊臣秀吉に仕えるようになります。信長のもとでは茶頭を務め、秀吉の時代になると、その存在感はさらに大きなものとなり、やがて天下一の茶の宗匠と称せられるようになりました。

秀吉の実弟・豊臣秀長(仲野太賀)からは、「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言われたと伝えられるほどです。つまり、利休は単なる茶人ではなく、天下人の側近として政治的な役割を担うまでになっていたのです。

しかし1591年(天正19年)、秀吉の逆鱗に触れた利休は堺への蟄居を命じられ、やがて京都・聚楽第で切腹して果てました。利休切腹の理由については、茶道具や大徳寺山門の問題、秀吉との政治的な対立など、さまざまな説が唱えられており、現在も決着をみていません。

ただ、利休が追求した茶の湯の美意識と、秀吉が求めた権力の美学との間に、なんらかの緊張関係があったことは容易に想像できるでしょう。

その象徴ともいえるのが、利休が生涯をかけて追求した茶室でした。利休は茶室の草庵化を進め、それまで基準とされていた四畳半よりもさらに狭い、三畳、二畳、さらには一畳半ほどの茶室まで生み出していきます。

そこでは、秀吉の金の茶室のような豪華さや広大な空間とは正反対の、狭く静かな空間だからこそ生まれる緊張感と精神性が追求されました。

さらに利休は、従来の茶の湯にとらわれない自由闊達な発想で、茶室や茶道具のあり方を変えていきます。高弟の山上宗二も、このような利休について「宗易は名人なれば、山を谷、西を東と、茶の湯の法を破り、自由せられても面白し」と評しています。

利休は、伝統を守るだけではなく、自ら新たな価値を生み出す茶人でもありました。しかし、このような利休の茶の湯に対する信念や行動が、秀吉との対立を生じることになり、それが利休滅亡という悲劇に繋がったとも考えられるのです。

4ページ目 利休の死後、茶の湯はさらに広がっていく

 

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