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【豊臣兄弟!】酷評の愚将・信雄が江戸時代まで延命、評価が高い信孝が25歳で自刃…織田兄弟の残酷な明暗

【豊臣兄弟!】酷評の愚将・信雄が江戸時代まで延命、評価が高い信孝が25歳で自刃…織田兄弟の残酷な明暗:5ページ目

その時々で有利そうなほうにつく信雄

信雄が「愚将」のイメージを背負ったのは、天正7年(1579)9月『天正伊賀の乱』の大失敗によるところが大きいようです。

信雄は信長に相談もせず、勝手に約8000もの兵を率いて伊賀攻略を始め大惨敗。

信長は大激怒し「親子の縁を断つ」と伝えたそうです。信雄は、縁切りこそされなかったものの、長い期間謹慎させられました。

さらに、本能寺の変のときには本拠地の伊勢松ヶ島城にて挙兵するも、以前から敵対関係にあった伊賀の国衆が一揆を起こし、十分な兵力もなかったために弔い合戦を断念しました。

これも「イマイチな武将」というイメージになってしまう原因だったそうです。

「三介殿(信雄)のなさることだから」と、周囲に言われてしまうような感じだったとも伝わる信雄…。

清洲会議後には、信雄は秀吉と手を組みます。

そして、天正10年の『賤ヶ岳の戦い』と翌年の春の挙兵で秀吉に負けた信孝。

信雄は、信孝に尾張に引くように甘言し、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺に落ち延びたところで、家臣に切腹を勧めさせて自害に追い込んだのです。

そして、信雄は正式な織田家の後継者となったものの、秀吉にとっては邪魔な存在になり、安土城を退去させられてしまうのでした。

天正12年(1584)、信雄は秀吉との関係を断ち、徳川家康と手を組みます。

本格的に秀吉と敵対関係になった信雄は小牧・長久手の戦いなどを経て、今度は同年の11月に家康に協議することなく単独で秀吉と講和しました。

天正18年(1590)の秀吉VS北条氏の小田原征伐では、15000もの兵を引き入れ出陣するなど、積極的に豊臣政権下での軍事活動に傘下した信雄。

けれども、秀吉から徳川家康の旧領への転封を命じられますが、信雄は「動きたくない」とこれを拒否したため改易。下野国の烏山へ流されます。

1591年、信雄は伊予道後の石手寺に入って出家し、常真(じょうしん)と名乗るようになりました。

その後、家康の口利きで信雄は赦免され、秀吉の『相伴衆』(宴席などに相伴役として伺候した者)となりそれなりの待遇を受けるように。

けれども、豊臣家に忠誠など誓う気持ちはなかったのでしょうか。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは家康に有利になる情報を提供、慶長19年(1614)の大阪の陣では、秀吉の子秀頼から味方になるように頼まれるも断っています。

豊臣家滅亡後、元和元年(1615)に信雄は家康から5万石を与えられました。

その後、信雄は趣味の茶道や庭づくりなどに没頭した優雅な生活を送り、寛永7年1月30年、73歳で京都で亡くなりました。

信長の息子ながら明暗のある人生を送った織田兄弟

戦の経験も豊富で評判が高かったものの若くして自刃させられた信孝。

武将としての勇猛果敢さや統率力などは目立たないものの、その時その時で有利なほうについて73歳まで生き延びた信雄。

けれども、信雄はさまざまな大きな戦に関わりつつも生き残り、結局は幕末まで織田の血を残すという大きな役割を成し遂げた人物でもあります。

大河『どうする家康』では「長いものに巻かれ続ける、父と真逆の人生」というキャッチコピーがつけられていましたが、それだけではない、強靭な精神を持っていたのかも。

これから起こる『賤ケ岳の決闘』で、信孝VS信孝がどのような奮闘ぶりを見せるのか楽しみです。

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参考:

柴裕之編 『戦国武将列伝 織田編』 戎光詳出版
織田信雄 鈴木 輝一郎(著)
『日本西教史』

 

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