【豊臣兄弟!】酷評の愚将・信雄が江戸時代まで延命、評価が高い信孝が25歳で自刃…織田兄弟の残酷な明暗:3ページ目
天下人ぶる秀吉に牙を剥く信孝
清洲会議後、まるで天下人のような振る舞いを見せる秀吉に腹立たしい思いを抱いた信孝は、同様に秀吉を嫌う柴田勝家に接近。
柴田勝家以外の三宿老は、清洲会議での決定をなかったこととし信雄を暫定的な織田家の当主として担ぎ上げます。
そして、秀吉は、三法師を岐阜城に抱え込んだ信孝を「謀反」の口実で天正10年(1582)に岐阜城を取り囲み信孝を急襲。
福井・北ノ庄城の勝家は、北陸地方の豪雪によって道が閉ざされて岐阜に援軍を送ることはできず……ということを読んだ秀吉の作戦だったのです。
信孝は無念ながらも秀吉に三法師を引き渡し、母や乳母、娘らを人質に供出して和睦をしました。
翌年天正11年(1583)、三月になって雪解けとともに柴田勝家が出陣、4月には降伏していた信孝も岐阜城で挙兵しますが、勝家は秀吉に敗れて1月24日に北ノ庄城にて自害。
頼みの綱の勝家を失い、信孝は岐阜城を開城し尾張国に向かい、内海大御堂寺に退きました。
そして、4月20日(5月2日とも)安養院にて信雄の命令によって自害します。25歳(26歳とも)の短い人生でした。
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人物の評判が高かった信孝
父・信長の「天下布武」を意識したのか、『一剣平天下』(※)という馬蹄形印判を使用していたという信孝。※「剣一振りで天下を平らげる」の意味
天下を取る気満々の織田信孝の人物評価は、兄の信雄と比べると高かったようです。
信孝はキリシタンになることを望んでいたとか。「コンタツ(信者用の数珠)を常に身につけている」理由について「父・信長の耳に届くようにするためで、父が構わないようならキリシタンになる自由を得るだろう」と述べていたそうです。(『1580〜82年度のイエズス会士の年報』)
また、ルイス・フロイスは信孝の人物像を、「佐久間殿(信盛)の外には、五畿内に於いて此の如く善き教育を受けた人を見たことがない」「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、又大なる勇士である」と記述してるそうです。(谷口克広; 高木昭作(監修)「織田信孝」『織田信長家臣人名辞典』)


