【豊臣兄弟!】酷評の愚将・信雄が江戸時代まで延命、評価が高い信孝が25歳で自刃…織田兄弟の残酷な明暗:2ページ目
三法師を岐阜城に抱え込んでしまった信孝
永禄元年(1558)に生まれた織田信孝は、永禄11年(1568)に神戸城主・神戸具盛の養子となり後継になります。
若い頃から重要な戦いに参戦して手柄を立て、天正10年(1582)には信長から讃岐国(現在の香川県)を与えられ、四国征伐の総大将を命じられました。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の報を聞いた信孝は、すぐ駆けつけられる摂津にいたものの、寄せ集めの軍隊だったために兵が逃亡しなす術もなかったとか。
3日後の5日には、従兄弟の織田信澄を「明智の娘婿だから通じているに違いない」と殺害しています。
そして、中国方面から引き返してきた秀吉と合流、『山崎の戦い』で光秀を討つものの、実際は信孝の兵は4000ほどでした。それに対し、約20000ほどの兵を率い全軍の指揮をとった秀吉のほうが実質的な総大将となったのです。
清洲会議では四宿老が三法師の共同後見人になり、信孝には兄・信忠の美濃国と岐阜が与えられ、安土城の修復が終わるまで、岐阜城の自分自身の手元に三法師を預かります。ところが、まるで自分が後見役のようなふるまいを見せるようになったとか。
前回の「豊臣兄弟!」の中でも、「修繕が終わるまでは、ここでゆっくり過ごしてください」と三法師をうまく丸め込んでいましたね。幼子は、何を言われているのか理解できていないように見えました。
秀吉には、「ザ・羽柴家」の瓢箪柄の小袖を着せられ、吹き込まれたセリフを言わされ。
信孝には「ここでゆっくりお過ごしを」と丸め込まれ。
事情はわかってなさそうなのに「うむ」と言ってしまう三法師。政争の道具感が強すぎて哀れになってしまいました。
