【豊臣兄弟!】信長の葬儀「秀吉vsお市」の真相!秀吉より先に行われた“本当の法要”の謎:2ページ目
秀吉プロデュースの豪華絢爛な信長の葬儀
実際、6月2日に信長が亡くなって以降、なかなか葬儀は行われませんでした。
信長の葬儀として一般的にイメージが強いのは、10月15日に秀吉がプロデュースして京都の大徳寺で行われた葬儀でしょう。(大徳寺で行われた追善供養自体は11日〜17日間)
たとえば、秀吉の右筆、大村由己が記した『惟任退治記』には、秀吉が取り仕切った信長の葬儀について非常に興味深い、以下のような描写があります。
就㆑中十五日御葬礼之作法、所㆑驚㆑目也、先棺槨以㆓金紗金襴㆒裹㆑之、軒之瓔珞、欄干之擬宝珠、皆鏤㆓金銀㆒、八角之柱ニ画㆓丹青㆒、八軒之間致㆓彩飾㆒、御骨、以㆓沈香㆒彫㆓刻仏像㆒……(中略)……供具盛物、龍足造花、作㆓七宝荘厳㆒、寔九品浄土、五百阿羅漢三千仏弟子、如㆑在㆓目前㆒矣、仏事役者……
長めに詳細に書いてあります。現代語に訳して要約すると、
〜十五日の御葬礼の作法は、目を驚かせるほどであった……と始まり、棺は金紗や金襴で包み、軒の瓔珞(ようらく)※や、欄干の擬宝珠はすべて金銀で彫り飾られていた。
八角の柱には色鮮やかな絵が描かれ、周囲には彩り豊かな装飾が施されていた。
さらに、お骨の代わりとして沈香で彫り刻んだ仏像を棺の中に収めた。
※瓔珞:菩薩や密教の仏の装身具、または仏堂・仏壇の荘厳具
とあります。この部分、文章で想像するだけでも、かなりド派手で「信長が見たら喜んだかもしれない」と感じますね。
さらに……
〜羽柴小一郎秀長が警固の大将となり、大徳寺から千五百軒(約2.7km)の間、警固の侍が三万人ほどいて、道の左右を守護。弓・箙(えびら)・槍・鉄砲を立て連ねて並んでいた。
葬礼の場には、秀吉分国の徒党は言うに及ばず、諸侍がことごとく馳せ集まり、その外見物の人々は貴賤を問わず雲霞のごとく多かった。〜
と続きます。この壮大なスケールのイベントを一目みようと見物客もかなり集まったようです。
〜行列の者は三千余人で、みな烏帽子に藤衣(喪服)を着ていた。五山をはじめ洛中洛外の禅宗・律宗、八宗九宗の僧侶は、幾千万いるかわからないほどで、それぞれの宗派が威儀を整え、手を合わせて問訊し、集まって行道した。〜
3000人もの人々が集まって喪服に身を包み行進している様子は、まるで映画のワンシーンのようですね。
