【豊臣兄弟!】22歳で散った長宗我部元親の天才後継者・信親とは?武勇を奮った若武者の壮絶な最期:2ページ目
秀吉の命令で九州へ遠征
やがて元親が四国政策をめぐって信長と決別し、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死を遂げると、織田政権は羽柴秀吉(池松壮亮)に乗っ取られていきました。
そして天正13年(1585年)に羽柴小一郎(仲野太賀)が四国へ攻め込んでくると、元親はこれに降伏。土佐一国のみを安堵されます。
やがて天正14年(1586年)に秀吉が大友宗麟への援軍として兵を起こすと、元親・信親父子もこれに従軍しました。
12月11日に戸次川(へつぎがわ)のほとりに布陣した元親らは、軍議の席で意見が対立します。
仙石秀久(せんごく ひでひさ)や十河存保(そごう まさやす)らは「ただちに川を渡って決戦を挑むべし」と主張、信親は「地の利があるこの地に留まり、増援の到着を待つべき」と反論しました。
結局は渡河決戦が採用されてしまい、信親は家臣たちに不満をもらします。
……信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ……
※『土佐物語』より。
仕掛けられていると分かりきった罠の中へ、自分からかかりに行くようなものだ。それでも決定には逆らえず、信親は決死の覚悟を固めたのでした。
武勇を奮った壮絶な最期
果たして12月12日、先陣を切った仙石秀久の軍勢はたちまち敗走し、長宗我部勢3,000は新納大膳亮(にいろ だいぜんのすけ)率いる5,000の敵勢を食い止めます。
乱戦の中で元親とはぐれてしまった信親は、中津留川原に踏みとどまって奮戦しました。
「ここまで持ちこたえれば面目も保てましょう。どうかお退き下され」
家臣の桑名太朗左衛門(くわな たろうざゑもん)が退却するよう進言しますが、信親は聞き入れません。
「ならぬ。ここで討死すると決めたからには、最期まで戦ってこそ残る名もあろう」
『元親記』によると、信親は刃渡り4尺3寸(約130センチ)の大薙刀を奮って8人を斬り伏せました。さらに敵が群がると今度は太刀を抜き、6人を斬り捨てたと言います。
しかし衆寡敵せず、力尽きた信親は敵将の鈴木大膳(すずき だいぜん)に討ち取られてしまいました。
信親に従っていた700の軍勢も全滅し、文字通り玉砕したということです。

