『豊臣兄弟!』明智光秀は生きていた?最期をぼかした演出と「光秀生存説」を史実から考察:3ページ目
光秀の首は本物だったのか?さまざまな「生存説」
では、「光秀=天海説」のほかに、光秀生存説にはどのようなものがあるのでしょうか。代表的なものとしては、次のような説があります。
①光秀の首は偽物だった。
②農民に討たれたのは影武者だった。
まず①については、重傷を負って自害した光秀の首を、重臣の溝尾庄兵衛茂朝が現場近くに穴を掘って隠したという伝承があります。その首を翌日、農民たちが掘り出し、秀吉のもとに届けたというのです。
しかし、山崎の戦いが行われたのは天正10年(1582)6月13日です。季節はすでに夏であり、翌日に掘り出された首が、果たして本当に光秀のものだと判別できたのかという疑問が残ります。
のちに光秀の首は、斎藤利三(内藤剛志)とともに粟田口で胴体とつながれ、磔にされたと伝えられますが、なぜ光秀の首を人目につきやすい場所で晒さなかったのかという疑問も残ります。
また、粟田口で晒されていた光秀と利三の遺骸を、利三と親しかった絵師の海北友松が奪還した際、なぜ利三の遺骸だけを持ち去り、光秀の遺骸は残したままにしたのでしょうか。
友松は、光秀の遺骸が別人のものであることを知っていたのではないか、そのような想像も成り立つのです。
光秀の首に関しては、さらに謎があります。それは、光秀の首塚が複数存在することです。
知られているだけでも、京都市東山区三条通白川橋下ルの首塚、京都府亀岡市の谷性寺の首塚、そして娘の細川ガラシャが供養したと伝わる京都府宮津市の盛林寺の首塚があります。
いったい、どれが本物の光秀の首なのでしょうか。もしかすると、すべてが偽物だった。そのような可能性まで考えられるのです。
②については、農民による落ち武者狩りで討たれたのは光秀本人ではなく、影武者の荒木山城守だったという説です。
重傷を負った光秀はなんとかその場を逃れます。そして、美濃国武儀郡中洞村に身を潜め、荒深小五郎と名乗って再起を期していたものの、ついにその時は訪れず、この地で亡くなった。そして現在も、同地には光秀の墓とされるものが残されています。
このような生存説が残されているのは、多くの謎に包まれた明智光秀という一代の英雄にふさわしいともいえますが、同時に、光秀という人物が人々から強く慕われていたことの表れなのかもしれません。
主君・信長を殺した逆賊として、悪しざまに語られることの多い光秀。しかし『豊臣兄弟!』では、従来のイメージ通り、生真面目で温かい心情を持ち、文武両道に優れた武将として描かれました。
だからこそ、今回のドラマでは「光秀生存説」という、さらなる物語の可能性を残したとも考えられるのです。
そういえば、光秀を主人公とした2020年のNHK大河『麒麟がくる』のラストシーンでも、光秀は「丹波の山奥に潜み、今も生きている」という噂があると語られました。
そして、光秀と深く関わった駒(門脇麦)が京の人混みのなかで「光秀らしき男」を目にします。彼女がその人影を見失い「十兵衛様」とつぶやくと、光秀らしき人物が馬にまたがり、疾走するシーンが描かれました。ここでドラマは幕を閉じたのです。
果たして、明智光秀は本当に山崎の戦いで死んだのか。それとも生き延びたのか。『豊臣兄弟!』でも、なんらかの形で、要潤演じる光秀が再登場することを期待する視聴者も多いのではないでしょうか。
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