『豊臣兄弟!』明智光秀は生きていた?最期をぼかした演出と「光秀生存説」を史実から考察:2ページ目
光秀生存説の代表格「天海=明智光秀」説
さて、光秀生存説に含みを持たせる形で終わった『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」。歴史好きの方ならば、光秀は山崎の戦いを生き延びたという伝承をご存じの方も多いはずです。
そのなかでも有名なのが、徳川家康(松下洸平)のブレーンの一人である「天海上人説」でしょう。
南光坊天海は、川越の喜多院の住持を務めたのち、家康に重用され、後に「黒衣の宰相」とまで呼ばれた僧侶です。しかし、その出自や前半生には不明な点も多く、謎の多い人物でもありました。
では、なぜ「天海=光秀」説が流布されるようになったのでしょうか。その理由として、以下のような点が挙げられます。
①光秀の城下町であった坂本に、天海ゆかりの滋賀院門跡があり、その隣には天海の廟所である慈眼堂が建つ。
②天海が修行したとされる比叡山に、「光秀」という僧の記録が残るという伝承がある。
③比叡山の石灯籠に、「奉寄進願主光秀 慶長二十年二月十七日」と刻まれている。
④天海が深く関わった日光に、「明智平」という地名が残る。
⑤家康と光秀はもともと親しかったとされ、南光坊天海の「光」は光秀に由来する。
このような説は、物語としては非常に面白いのですが、現在のところ、天海=光秀説は確実な史料によって裏付けられたものではなく、伝承の域を出ないと考えられています。
