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『豊臣兄弟!』10代で散った小一郎と慶の嫡男・与一郎(大西利空)。豊臣家の跡継ぎを襲った悲劇

『豊臣兄弟!』10代で散った小一郎と慶の嫡男・与一郎(大西利空)。豊臣家の跡継ぎを襲った悲劇:2ページ目

「本能寺の変」の天正10年に命を終えた与一郎

史実では、小一郎こと羽柴秀長(豊臣秀長)は、兄の秀吉同様に、あまり子宝には恵まれず、実子は与一郎と娘(名は不明)の二人だけでした。

羽柴与一郎の情報は少なく、実名・生年・人物像は不明。亡くなったのは、天正10年(1582)とされています。

母親の慈雲院(ドラマでは慶)も実名は不明。ドラマのという名前は、高野山奥之院の五輪塔「慈雲院芳室紹慶」とあることから「慶」の一字を取ったそうです。

与一郎が亡くなったとされる、天正10年は…
・6月2日に本能寺の変
・6月13日に山崎の戦い
・6月15日に安土城天守が炎上
・6月27日に清洲会議が開催
・12月20日に秀吉が織田信孝がこもる岐阜城を攻略

と、織田の天下から明智の天下、そして豊臣の天下へ……と、激しい濁流に流されるかのように、歴史が塗り替えられていく年でもあります。

そんな天正10年に命を落とした与一郎。13歳〜15歳ごろだったと推測されています。

「与一郎」の名が出てくるのは江戸時代の文献のみ

羽柴与一郎については、江戸時代に成立した文献『森家先代実録』『高山公実録』でその存在が伝えられる程度だそうです。

『森家先代実録』とは、赤穂藩主森家が編纂した森家の家史で、それによると与一郎は那古野因幡守の娘の岩を妻とし、岩は与一郎の死後、秀長の養女となり、文禄3年(1594年)に森忠政に嫁いだ……と記述されているそうです。

『高山公実録』(藤堂高虎の一代記)の「郡山城主記」には秀長の「御実子」が早世、天正10年(1582年)丹羽長秀の三男・千丸(後の藤堂高吉)を秀長の養子にした、そして、“早世した秀長の実子”が与一郎……と記述されているそうです。

基本的に与一郎の名前は、同時代の史料には見当たらず、前述の江戸時代に編纂された二つの書物に記されているのみ。ドラマでは、“慶の前夫の子で小一郎が祖父の元から取り戻した”というアレンジでしたが、これもありだったと思います。

「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史家の黒田基樹氏によると、この二つの文献からも、与一郎は秀長の実子であったのは間違いないと述べているようです。

3ページ目 祖父に復讐心を吹き込まれて育った与一郎

 

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