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朝ドラ「風、薫る」直美が目指す“届ける看護”…モデル・鈴木雅が日本初の『派出看護』を始めた理由

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「お金がない」と病院を断る文の家に通い看護する

新潟の女学校に赴任するために旅立ったりん。直美は、一ノ瀬家で皆と一緒に暮らすことになりました。

第16週『新風吹くころ』。体調不良で倒れた瑞穂屋の文を直美が看護することになりました。

長屋のトヨさんのとき、「医療を届けられなかった」悔いが残る直美は積極的に文の家に通い看護を行います。

脈を測ったり、足のむくみ、おなかの痛みなどをチェックし、医者に見てももらうように勧めるも文は「お金がかかるからいい」と断ります。

「私看護婦なのに、病人がお金のせいで治療受けないの見るのもう嫌なんです」と、町医者を呼ぶも胃炎の薬をだして「様子をみましょう」程度の対応でした。

直美は、おかゆを作ったり部屋を整えたりと、病院の仕事がないときは懸命に看護をします。文と接するうちに「この人がお母さんかも」という思いが膨らみ、より確かな証拠が知りたいという気持ちもあったことでしょう。

けれども、白いエプロンをしながら看護をするうちに「看護婦による在宅看護の必要性と可能性」が、より具体的に見えてきたのではないでしょうか。

貧しい人々を無償で看護する『慈善看護婦会』設立

原案伝記小説によると、新潟に行った大関和は、女学校の舎監の仕事を経て、元大学病院の外科助手・瀬尾原始(ドラマでは黒川勝治/平埜生成)に誘われ、明治24年頃、彼が院長の「知命堂病院」で、再び看護婦長として働くようになります。

直美のモデル鈴木雅は、大学病院を辞め、東京の本郷森川で『慈善看護婦会』を設立。当時は、大病院が家庭に看護婦を派出することはありました。

けれども雅が設立したのは『貧しい人々を無償で看護する』方針の派遣看護婦の会です。

実は、雅はアメリカに留学予定だったのです。けれども、横浜で船に乗る前に事故に遭ってしまいました。そして、アメリカ人医師と出会い、当時流行っていた天然痘患者の看護に追われ二週間も働くことに。

もちろん、船には乗れず留学はとりやめになりました。

その後、雅は明治29年(1891)に『慈善看護婦会』を設立することになったのでした。大関和はすぐに雅の『慈善看護婦会』を訪れます。場所は以前働いていた第一病院の前だったそう。

そこには、以前第一病院で講習を受けていた看護婦たちもいました。

雅は、第一病院の医師たちを訪ね、事業内容を説明して看護婦の派出をお願いしたそうです。

中には「鈴木雅が看護婦仲介業を始めたそうだが、まあ実行するのは30年後だろう」とバカにする医師もいたとか。

相変わらず、看護婦差別・働く女性差別の医師はいたようです。

「以前働いていた、第一医院のような大病院で働く看護婦も必要ですが、私は、看護婦が主体的に働けるような職場を作りたかった。ここの看護婦たちは病院にかかることのできない患者の側です」だという雅。

医療現場の主役はまさに「患者」。患者のために主体的に働くという考えに和も共鳴したのでした。

4ページ目 雅は夫の遺産を『慈善看護婦会』に注ぎ込む

 

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