秀長さえ生きていれば豊臣家は滅びなかった――『豊臣兄弟!』秀吉を狂わせた、弟の「早すぎる死」:2ページ目
2ページ目: 1 2
戦国史への影響
こうして、豊臣秀長は秀吉のナンバー2として、戦場だけでなく政務でも大きな役割を果たしました。
例えば、豊臣秀吉が果たした有名な政策としては、刀狩りが挙げられます。それまでの血みどろの戦国の気風から農民を解放するための武装解除政策でもあったのですが、これは秀長がいなければ実現しなかったでしょう。
「刀狩り」でも実は武器は奪わず?豊臣秀吉が目指していた本当の支配のカタチとは
武器を没収しない「刀狩り」!?今の時代は、法的にも倫理的にも庶民が「暴力」を振るうことは認められていません。では、ずっと昔はどうだったのでしょうか。これについて、豊臣秀吉のいわゆる「刀狩り」「喧嘩…
また、少し踏み込んだ政策として、枡を京枡に統一したことも挙げられます。これは納税の不公平をなくす仕組み作りであり、有名な太閤検地とあわせた税制改革でした。これもまた、秀長あってこその政策です。
こうして彼は善政を敷き、諸大名との調整役としても高い評価を受け、豊臣政権の安定に欠かせない存在となりました。
秀吉の勢力が急拡大しても混乱が少なかったのは、秀長の冷静な判断と調整力があったからだと考えられます。
その傍証となるのが、秀長が五十二歳で亡くなった途端に、豊臣政権ならびに豊臣家は一気に滅亡の一途を辿ったという点です。
千利休の切腹、朝鮮出兵、秀吉の後継候補の相次ぐ死、そして秀吉の死後には家臣団が対立…。これらは全て、秀長の逝去と共に始まったと言っても過言ではありません。
千利休が切腹させられたのはなぜ?政治利用された「茶の湯」と謎の処刑理由
織田信長との出会い茶の湯の完成者として名高い千利休ですが、最期は主君である豊臣秀吉から切腹を命じられました。[caption id="attachment_191700" align="a…
暗雲立ち込める豊臣政権!朝鮮出兵の失敗と家臣団の分裂の経緯を追う
最初は破竹の勢いの朝鮮出兵豊臣秀吉による朝鮮出兵は、1592年の文禄の役と、1597年の慶長の役の二回行われています。双方とも失敗に終わり、1598年に豊臣軍が朝鮮から撤収する形で終結しました。…
もし秀長が生き永らえていたら、豊臣政権の形は大きく変わっていたどころか、滅亡そのものを防いでいたかも知れません。
こうして見ていくと、彼が農民から武士へと転身した選択は、個人の人生だけでなく戦国史そのものに影響を与えたといえるでしょう。
※秀長に関しては下記記事でも詳しく紹介しています。
『豊臣兄弟!』豊臣秀長は実は「百万石大名」だった!徳川家康と並んだ秀吉の弟、忘れられた名将の軌跡
実は百万石大名NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目されている豊臣秀長は、兄と同様に農村の家に生まれたとされています。そんな彼は、のちに豊臣家の中で最上位の家臣へと進みました。……と、ここま…
『豊臣兄弟!』成功しても褒められない…地味で控えめな「裏方」だった豊臣秀長が兄の陰で発揮していた実力
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で話題沸騰中の豊臣秀長。彼は兄の秀吉を支えた「裏方」として語られることが多いのですが、実際には、武士としても戦場でその能力を発揮していました。しかし、力を発揮して…
『豊臣兄弟!』欲のない男・豊臣秀長…賄賂も茶器も通用しない!秀吉を支えた名補佐役の信念
公正な人物像NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で話題の豊臣秀吉・秀長兄弟。さて史実の豊臣秀長という人物の人物像について見ていくと、彼には私利私欲に流されない姿勢が一貫していたという点に驚かされ…
参考資料:中野明『図解 豊臣秀長「No2」の仕事術: カリスマ秀吉の「右腕」に学ぶ超一流の戦略展開スキル』Gakken、2025年
画像:Wikipedia、PhotoAC
ページ: 1 2






