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【豊臣兄弟!】織田を裏切った代償は大きすぎた… 別所長治(下川恭平)を待っていた惨劇、壮絶な最期

【豊臣兄弟!】織田を裏切った代償は大きすぎた… 別所長治(下川恭平)を待っていた惨劇、壮絶な最期:2ページ目

しかし天正6年(1578年)2月になって反旗を翻し、毛利と連携して三木城(兵庫県三木市)に立て籠もりました。

長治の謀叛に対して秀吉はすぐに攻勢をしかけ、次々と別所方の支城を攻略していきます。天正6年(1578年)4月には野口城(兵庫県加古川市)、同年7月には神吉城(かんきじょう。同市)そして志方城(しかたじょう。同市)が秀吉の手に落ちたのでした。

天正7年(1579年)9月には毛利や石山本願寺の援軍を得て反撃し、織田の部将である谷衛好(たに もりよし)を討ち取るなど意地を見せますが、劣勢を覆すまでには至りません。

三木城に対する包囲は次第に厳重となり、後世「三木の干殺し(ひごろし/ほしごろし)」と呼ばれる過酷な兵糧攻めを受けることとなります。城内の兵糧は喰い尽くされ、人馬の死肉すらむさぼり喰らう飢餓地獄となりました。

もはや援軍や補給の見込みはなく、覚悟を決めた長治は、秀吉に降伏する旨を伝えます。

「わしと弟の友之、そして叔父の賀相が腹を切るので、生き残った将兵については助命してほしい」

※この時点で末弟の治定は討死、叔父の重棟は叛旗を翻す直前に織田方へ寝返っています。

秀吉は長治の申し出を受け入れ、長治は妻子らとともに自刃して果てました。

今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身とおもへば

【歌意】今はもう怨みなどない。自分の命と引き換えに、みなが助かるのだから。

辞世を詠んだ長治の介錯を行ったのは別所家臣の三宅治忠(みやけ はるただ)。ここに播磨の戦国大名・別所長治は壮絶な最期を遂げたのでした。

時に天正8年(1580年)1月17日、享年23歳または26歳。その首級は妻と一緒に雲龍寺(兵庫県三木市)に祀られています。

3ページ目 秀吉のせい?なぜ長治は叛旗を翻したのか

 

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