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【豊臣兄弟!】光秀が最後まで頼りにした武将・筒井順慶とは?「洞ヶ峠を決め込む」の由来になった波乱の生涯

【豊臣兄弟!】光秀が最後まで頼りにした武将・筒井順慶とは?「洞ヶ峠を決め込む」の由来になった波乱の生涯:3ページ目

 
2026/07/25

長きに渡った因縁に終止符が打たれる

天正4年(1576)に石山合戦で直政が戦死すると、光秀の与力となったと同時に大和国の支配を一任されました。

その後は天正5年(1577)の紀州征伐や信貴山城の戦い、天正7年(1579)の有岡城の戦いと言った主要な戦いに参加しています。

特に信貴山城の戦いでは土地に詳しいためか先鋒を任されています。また、順慶の家臣・森好久率いる鉄砲衆200人が、仕官先の久秀に対して反乱を起こしたことが信貴山城落城に繋がりました。

順慶はこの戦いで死亡した久秀の遺体を達磨寺で丁重に葬りました。長年いがみ合った宿敵だったからこそ、順慶なりの敬意をもって葬ったと考えられます。

約20年にわたる2人の因縁は久秀の死をもって終わりを迎え、順慶が大和国(現在の奈良県)を平定しました。

日和見順慶はこうして生まれた

そして、天正10年(1582)6月2日に起こった本能寺の変後、順慶は明智光秀と豊臣秀吉どちらにもつかずに静観を貫きます。そんな中、光秀は洞ヶ峠に布陣して順慶の動向をうかがいました。

光秀にとって順慶は織田家臣になる際に仲介した上に、どちらも教養人だったので親しい間柄でした。そのため、光秀側に味方すると考えていたのでしょう。

しかし、光秀の期待は大きく外れ、順慶が動かないまま6月13日の山崎の戦いを迎え、討ち死にしました。

この時、順慶が洞ヶ峠に布陣後、日和見をしたことから「洞ヶ峠を決め込む」のことわざが生まれたとされていますが、上記の通り光秀が布陣しています。順慶が布陣したことは『増補筒井家記』に記載がありますが、史料自体の信ぴょう性が低く、誤りの可能性が高いです。

ただ順慶が日和見だったことは確かで、戦いが終わった同年6月14日に秀吉の味方に付きました。

この遅参に対して「道理に反すること」と叱責を受けますが、お咎めはなく以後秀吉の家臣となります。

病を押して戦った末に…

天正12年(1584)に起こった小牧・長久手の戦いでは、病でありながら出陣しました。順慶は戦いの前に胃痛を訴え、寝込んでいました。それでも秀吉は出陣を促したことから、順慶の病状を顧みないくらい関係性は希薄だったことがうかがえます。

無理をして戦ったことで胃痛が悪化し、回復することなく同年8月に36歳で病死しました。

跡継ぎの日和見によって領地を失う

順慶の死後、養子の定次が跡継ぎとなりますが、重臣だった島左近と折り合いがつかず、手放してしまいます。関ヶ原の戦い後には徳川派と豊臣派で内部分裂が起こり、収拾がつかない事態になってしまいます。

この前に豊臣政権下で移封の地となっていた伊賀国の支配を江戸幕府から任命され、国持大名となりました。

そんな状況の中で慶長13年(1608)に家臣が、定次の悪政や鹿狩りでの怠慢を幕府に密告したことで改易処分を下され、国持大名としての筒井氏は滅亡してしまいました。

これは筒井騒動と呼ばれており、豊臣恩顧の定次が幕府につかずに日和見な態度をとっていたことが後々の懸念になると見なされ、改易に繋がったとも言われています。

参考

金松誠『筒井順慶』(シリーズ・実像に迫る019)2019年、戎光祥出版

日本博学倶楽部『戦国武将・あの人の「その後」―「関ヶ原」「本能寺」…事件が変えた男たちの運命』2002年、PHP研究所

 

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