【豊臣兄弟!】光秀が最後まで頼りにした武将・筒井順慶とは?「洞ヶ峠を決め込む」の由来になった波乱の生涯:2ページ目
奪い奪われ筒井城
翌年の永禄9年(1566)に、順慶と三好三人衆は松永軍に攻勢を仕掛け、美濃庄城を攻略します。これをきっかけに形勢が逆転し、久秀と三好三人衆が堺で和睦をしている最中、順慶は手薄になった筒井城を奪還。
こんなにあっさりと目的が達成できたのは、三好家の重臣・篠原長房の侵攻への対応に久秀が注力していたためでした。
居城を取り戻した順慶は再度三好三人衆と連合して多門山城にいる久秀と対峙します。順慶達は、永禄10年(1567)に勃発した東大寺大仏殿の戦いにて奇襲を受けたことで敗北しました。
ちなみに、この戦いの中で起こった不慮の事故が原因で大仏殿が消失しています。
それでも、翌年には信貴山城を攻略し、徐々に劣勢に追い込んでいきますが、久秀が織田信長と足利義昭に付き従ったことで戦況は一変。大和国の支配権を久秀が握ったことで、またしても筒井城を奪われてしまいました。
互いに織田家臣となる
順慶は叔父・福住順広(ふくずみ-としひろ)のもとへ落ち延び、久秀側の城の奪取や新たな城の築城を行いつつ、力を蓄えていました。
そんな中、対久秀へと方針を変えた義昭が接近してきます。義昭の助力を得た順慶は、井戸吉広に辰市城を築城させ、久秀に圧力をかけます。
元亀2年(1571)に、久秀が目の上のたん瘤になりかねない辰市城に侵攻したことで、戦いの火ぶたが切られました。辰市城の戦いと呼ばれたこの戦いは、劣勢であった筒井軍に援軍が来たことで形勢逆転。
松永家筆頭家老の竹内秀勝や柳生宗厳の長男・厳勝に重傷を負わせ、500人の兵を討ち取る大損害を与えました。
この勝利を機に順慶は筒井城に帰還し、2度目の奪還に成功しました。そして、同年に明智光秀の仲介で信長に仕えます。
同時に久秀も佐久間信盛の仲介で信長の家臣になったことで、両者は矛を収めました。
信長の親族を妻にもらう
しかし、ほどなくして久秀が信長から離反。義昭も続き、不利な状況が起こってしまいますが、順慶は信長に従いました。
槙島城の戦いを経て久秀と和議を結んだ信長に対して、天正2年(1574)に忠誠の証として母親を人質に差し出します。信長もその忠義に応えた形で翌年に自身の親族を妻として差し出しています。
この年には大和守護になった原田直政の与力に任命され、長篠の戦いにて鉄砲隊の派遣や越前一向一揆に参戦しました。


