『豊臣兄弟!』信長を裏切る荒木村重(トータス松本)…逃亡の果てに待っていた700人処刑の悲劇:3ページ目
700名近くを処刑

村重の行為に対し、「武道人にあらず」と非難した信長の怒りは凄まじく、荒木一族や関係者はほぼ全員が処刑されている。
12月には尼崎近くで122人の女房衆(家臣の妻子など)を磔にして処刑。また京都に護送された村重の一族と、重臣の家族36人が六条河原で斬首された。身分の低い人質は農家に押し込められ火をつけられたという。
結果的に700名近い関係者が村重の講和拒否によって殺されている。処刑された人物の中には、村重の妻や知正の息子も含まれていた。
信長の生涯を綴った「信長公記」には、この時の状況が以下のように記載されている。
“風のまはるに随って、魚のこぞる様に上を下へとなみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上り飛び上り、悲しみの声煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも是なるべし。肝魂を失ひ、二日共更に見る人なし。哀れなる次第中々申し足らず”(Wikipediaより)
摂津国からの逃亡と晩年
1580年。花隈城に移った村重は、追撃してきた織田方の重臣・池田恒興軍と2度にわたって交戦している。織田軍は2度目の戦いで花隈城を開城させることに成功するが、村重はしぶとく逃亡し毛利氏を頼って西国に落ち延びた。
1582年に信長が横死すると、村重は堺に戻り居を構えたという。晩年は秀吉の元で茶人として活動したという記録も残っている。1586年に堺で死去。享年52。
