朝ドラ「風、薫る」後に“看護婦育成”を支えることに…黒川勝治(平埜生成)のモデル・瀬尾原始の生涯:2ページ目
岡山で外科医、教育者として活躍するが…
原始の医者としてのキャリアは、地方で積み上がっていきます。
明治22(1889)年10月、原始は第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)の外科教諭に就任します。
当時の同校には、開校から日が浅く、施設も十分ではなく、正規の看護婦もいませんでした。
原始はここで看護婦養成の必要性を痛感。岡山産婆看護婦養成所の設立に関わり、自ら講師として産婆と看護婦の養成に尽力しました。
さらに原始は岡山県病院外科医長も兼任。患者の診療、医学生や看護生の教育、研究に追われる多忙な日々を送ります。
明治23(1890)年4月には岡山医学会副会長に就任。地方の医療界を牽引する存在として注目されていました。
一方、郷里の高田では、養父・玄弘の悲願であった総合病院「知命堂」の建設が進んでいました。
明治24(1891)年秋、知命堂病院の竣工が近づくと、原始が高田へ帰郷するという話が出ます。
岡山県では、県知事や学校当局、学生らによる留任運動まで勃発。原始を引き止める動きが強まりました。
しかし原始は、同年10月に第三高等中学校医学部を退職。郷里の高田へ戻る道を選びます。
