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朝ドラ「風、薫る」新宿中村屋を築いた波乱の実業家!丸山忠蔵(若林時英)の実在モデル・相馬愛蔵の生涯

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星良との運命的な出会いと結婚、そして中村屋へ

やがて愛蔵の人生に大きな出会いが訪れます。

明治30(1897)年、愛蔵は星良(ほしりょう)と結婚。二人は東京の牛込払方町にあった日本基督教会で式を挙げ、その後、穂高に帰ります。愛蔵は数えで26歳、良は21歳でした。

良は宮城女学校、フェリス英和女学校、明治女学校で学んだ女性です。

文学的な素養を持ち、のちに「黒光」という筆名を使うようになりました。この筆名は明治女学校の校長だった巖本善治から授かったようです。

しかし、穂高での暮らしは、黒光にとってなじみにくいものでした。愛蔵もまた、地方にとどまり続けるだけでなく、新しい道を探し始めます。

明治34(1901)年、相馬夫妻は上京。そして同年12月30日、本郷区森川町でパン屋「中村屋」を開業して商売を始めました。中村屋はもともとあった店を居抜きで買い取り、店名もそのまま引き継いだとされています。

当時、パンはまだ一般の食卓に深く根づいていたわけではありませんでした。愛蔵と黒光は、なじみが薄く、なおかつ先行店との差が大きすぎない商売として、パン屋に目をつけたようです。

明治37(1904)年には、クリームパンクリームワッフルを開発。このクリームパンは木村屋のアンパン、ジャムパンに並ぶ日本の三大菓子パン」に成長していました。

やがて中村屋は、明治40(1907)年に新宿へ支店を出店。明治42(1909)年には現在地へ移転して、和菓子の販売も始めています。

中村屋の特徴は、食べ物を売る店でありながら、文化人や芸術家が集う場にもなったことです。

相馬家には、荻原碌山を中心に多くの芸術家が出入りするようになりました。これが、のちに「中村屋サロン」と呼ばれる交流の場になります。

中村屋サロンには、荻原碌山、高村光太郎中村彝(なかむら・つね)ら多くの芸術家が出入りしました。相馬夫妻は、物心両面で芸術家を支えたとされています。

大正4(1915)年には、インド独立運動家ラス・ビハリ・ボースを中村屋でかくまいました。

後にボースは相馬夫妻の長女俊子と結婚。ボースの手ほどきで作られた「純印度式カリー」は、中村屋喫茶部の看板メニューになりました。

中村屋は、単なる商店ではありませんでした。そこは、食文化、芸術、国際交流、社会運動が交差する、不思議な磁場のような場所だったのです。

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