【豊臣兄弟!】えっ生き延びるの?第17回「小谷落城」で再登場した斎藤龍興(濱田龍臣)の“生存説”を考察:2ページ目
定説では討死だが生存説も残る
ドラマでは、朝倉勢撤退の理由を義景の「一乗谷への執着」としています。しかし史実では、朝倉氏と関係の深かった平泉寺玉泉坊が信長に内応したことが、退却の決定的な要因でした。
この8月8日の退却戦において、龍興もまた武運拙く、木ノ芽峠近くの刀根山で討死したと伝わります。
また『武家事紀』によれば、龍興の戦死は8月10日。かつての重臣・氏家直昌の家臣・宮河但馬守に討たれ、墓は敦賀市疋田の定広院にあるともいわれています。
この墓は現在では別人のものと判明していますが、同寺の過去帳には、
「美濃守龍興公死す。橋東寺坂口で立腹切り、首は信長取り行き、体は定広院に納む」
と記されているのです。
しかし、『豊臣兄弟!』でのシーンで、その最期が曖昧であったように、古くから龍興には生存説が囁かれていました。
1567年(永禄10年)、稲葉山から退去した際、龍興が逃れた先は長島の願誕寺でした。ここから、龍興と本願寺の深い関係がうかがえます。曾祖父・長井新左衛門尉と本願寺重臣・下間氏との縁戚関係が、その背景にあったともいわれます。
1570年(元亀元年)8月、龍興は顕如らとともに野田・福島の戦いで三好三人衆を支援。その後も本願寺の援助を受けて美濃侵攻を企図し、顕如から黄金と大刀を贈られています。
こうした縁から、刀根山を落ち延びて石山本願寺へ逃れ、再起を期したものの、足近(現在の羽島市)の寺で病死したという説もあります。同地の願教寺には、龍興の墓と父・義龍の位牌が伝えられています。
また、龍興は臨済宗妙心寺派の快川紹喜(かいせんじょうき)とも親しかったため、1569年(永禄12年)3月に、富山の興国寺に身を隠したという伝説も残ります。
龍興はここで雌伏し、天下の情勢をみていたものの、もはや美濃回復の手立てがないと悟ると、九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓し、経力村と名付けたこの地に住みついたというのです。
そして、1611年(慶長16年)、出家した龍興は興国寺の住持となります。同寺には、龍興の鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられており、1632年(寛永9年)6月19日に86歳で亡くなったとされるのです。

