『豊臣兄弟!』秀吉と小一郎はなぜ“羽柴”に?やがて徳川家康まで名乗らされた姓の正体:2ページ目
まだ「木下」を使っていた小一郎
かくして羽柴筑前守となった秀吉。しかし小一郎の方は、もうしばらく木下の姓を使用していたようです。
「羽柴」小一郎長秀の署名が使われるようになるのは天正3年(1573年)以降で、それまでは秀吉一人が羽柴の姓を使っていました。
秀吉一人が勝手に名乗り始めた羽柴の姓が周囲に認められて、それなら我らも使おうじゃないかと、小一郎や一族の者たちもならったのでしょうか。
羽柴の姓を使わなくなる秀吉
このように羽柴の姓は周囲から認められるようになりました。しかし秀吉が立身出世すると、あまり使われなくなったようです。
もちろん秀吉は死ぬまで羽柴(豊臣は本姓であり、姓とは別)だったのですが、いちいち署名しなくなったのでした。
特に主君である織田信長(小栗旬)の死後、織田政権を乗っ取った天正10年(1582年)以降は傲慢に振る舞い、署名もぞんざいになっていきます。
書状を発給する際は家臣名義の奉書とし、自分で署名する時はただ「秀吉」のみ。ひどいものだと花押(かおう。サイン)や印判(ハンコ)だけなんてのもありました。
奉書とは相手に直接出さず、家臣に用件を口頭で伝えて家臣から相手に「ウチの殿があなたにこんなことを言っていました」という内容で出す書状です。
実に上から目線で、周囲が反感を覚えようと知ったことかとばかりの傲岸不遜ぶりが、さすが天下人と言ったところでしょうか。
秀吉が最後に羽柴の姓を署名したのは、天正13年(1585年)10月13日付で出された遠藤基信(えんどう もとのぶ。伊達政宗家臣)への書状だったそうです。

