『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)を見限り信長へ降伏…それでも救われなかった朝倉一門・織田景綱の末路
天正元年(1573年)8月20日、朝倉景鏡(池内万作)の裏切りによって朝倉義景(鶴見辰吾)が自刃。ここに北陸の名門・朝倉氏は滅亡します。大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、今後1〜2話のうちに描かれることになりそうです。
しかし朝倉一族のすべてが滅び去った訳ではなく、景鏡のように織田信長(小栗旬)へ臣従することで命脈を永らえた者もいました。
『豊臣兄弟!』主君を売る裏切り者…悪役ぶり全開の朝倉景鏡(池内万作)に待つ哀れな最期
今回はそんな一人である織田景綱(おた かげつな。朝倉景綱)を紹介。なぜ朝倉一門なのに、織田を名乗っていたのでしょうか。
義景の遠い親戚?謎多き人物
織田景綱は生年不詳、代々越前国丹生郡織田荘(にゅうぐんおたのしょう。福井県越前町)を治める織田城主の家系でした。それで織田の苗字を名乗っていたようです。
ちなみに、この織田荘は織田(おだ)家発祥の地であり、信長の祖先は当地に鎮座する劔神社(つるぎじんじゃ。越前国二宮)の神官であったと言われています。
通称は七郎。『朝倉始末記』によると義景の従兄弟とされていますが、この記述には裏づけがありません。
官途名(自称の官職)は兵庫助(ひょうごのすけ。兵庫介)を名乗っており、兵庫助景亮(かげすけ)や兵庫助景良(かげよし)とのつながりが考えられているようです。
恐らく兵庫助とは、その家に代々受け継がれる屋号のような感覚だったのでしょう。
一説には朝倉氏の初代当主である朝倉広景(ひろかげ)の子・中野愚谷(なかの ぐこく)の末裔とも考えられており、第11代当主の義景から見て非常に遠い親戚と言えます。
信長に攻められ義景を見限る
景綱が初めて登場するのは永禄2年(1559年)、義景の名代として上洛し、公卿の近衛前嗣(このゑ さきつぐ。近衛前久)と面会していました。
永禄13年(1570年)に信長が越前国へ侵攻した時は兵500を率いて河野口(こうのぐち。福井県南越前町)の守備に当たっています。
浅井久政(榎木孝明)の裏切りによって一度は信長を撃退したものの、その後は劣勢に追い込まれていきました。
天正元年(1573年)8月13日の刀根坂合戦(とねざか、福井県敦賀市)では、信長に敗れて木ノ芽峠(福井県南越前町)まで逃れてきた義景、態勢を立て直そうと兵を掻き集めます。
しかし景綱はこれを拒絶。兵をまとめて織田城へ引き揚げてしまいました。事実上の離反と言えるでしょう。


