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『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)を見限り信長へ降伏…それでも救われなかった朝倉一門・織田景綱の末路

『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)を見限り信長へ降伏…それでも救われなかった朝倉一門・織田景綱の末路:2ページ目

越前一向一揆で国外逃亡

織田城へ帰還した景綱はそのまま信長に降伏し、本領を安堵されて織田城主としての地位を維持することができました。

しかし越前国内の情勢は不安定で、信長から守護代(事実上の国主)に任じられた桂田長俊(かつらだ ながとし。前波吉継)に対する不満がくすぶっていたようです。

明けて天正2年(1574年)1月に富田長繁(とんだ ながしげ)の煽動で土一揆が一斉蜂起。長俊を討ち取り、一ヶ月足らずで越前国を乗っ取ってしまいました。

しかし長繁の横暴ぶりに人心は離れ、2月には加賀国から招かれた七里頼周(しちり よりちか)や杉浦玄任(すぎうら げんとう)を担ぎ上げ、土一揆は一向一揆へと変貌します(越前一向一揆)。

長繁を滅ぼした一向一揆は留まるところを知らず、土橋信鏡(朝倉景鏡)を滅ぼし、ついに景綱の立て籠もる織田城にも攻め込んできました。

景綱は衆寡敵せず、城も将兵を捨てて、妻子だけを連れて舟で敦賀へ逃亡します。その後景綱がどんな末路をたどったか、はっきりしたことはわかっていません。

終わりに

かくして朝倉景健(重岡漠)や朝倉景胤(かげたね)のように一向一揆へ降伏した者を除いて、越前国から朝倉一門はことごとく滅ぼされてしまいました。

ところで行方不明となった景綱ですが、実は生きていたとする説もあるようです。

薩摩の島津家久(しまづ いえひさ)が上洛した時の様子を記録した『家久君上京日記』によると、天正3年(1575年)5月15日に坂本城下(滋賀県大津市)で開かれた酒宴に「朝倉兵庫助」という者が参加していました。

この兵庫助が景綱なのか、あるいは別人物(兵庫助を襲名した息子?)なのかはわかりません。せめて安らかに暮らしていてほしいと願うばかりです。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」には登場しないでしょうが、こんな人物もいたんだな、くらいに覚えておくと朝倉一族の悲哀をより深く感じられることでしょう。

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※参考文献:

  • 松原信之『越前朝倉氏の研究』吉川弘文館、2025年10月
  • 松原信之『越前朝倉一族』新人物往来社、1996年10月
  • 『福井県大百科事典』福井新聞社 1991年6月
 

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