『豊臣兄弟!』足利義昭の追放で終わりではない!“幻の16代将軍” 信長に翻弄された嫡男・義尋の生涯:3ページ目
出家そして還俗
やがて天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で世を去ると、義尋は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の庇護を受けました。
そして天正15年(1587年)8月28日に出家、奈良興福寺の大乗院で門跡となります。
これは父である義昭の願いによるもので、我が子を政争から守りたかったのか、あるいはあくまで自分が将軍に返り咲きたかったためかはわかりません。
慶長2年(1597年)8月28日に父の義昭が世を去ると、義尋は焼香に訪れています。
仏道に帰依した義尋は大僧正という高位に昇りますが、後に還俗(げんぞく。僧侶をやめること)して足利高山(たかやま?こうざん?)と名乗りました。
そして古市胤子(ふるいち たねこ)を妻に迎え、二人の男児を授かります。
男児はいずれも出家して義尊(ぎそん)・常尊(じょうそん)と名乗り、それぞれ実相院(じっそういん)と円満院(えんまんいん)の門跡となりました。
義尋が世を去ったのは慶長10年(1605年)10月17日。戒名は法源院高山、まだ34歳という若さだったと言います。
義尋・基本データ
- 生没:元亀3年(1572年)8月15日生〜慶長10年(1605年)10月17日没
- 両親:足利義昭/さこの方
- 改名:足利?義尋→義尋→足利高山
- 戒名:法源院高山
- 妻妾:古市胤子(古市胤栄女)
- 子女:義尊、常尊
今回は足利義昭の嫡男である義尋について、その生涯をたどってきました。
信長の都合で次期将軍のように扱われたり、そっけなくなったり、実に振り回されたことでしょう。果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」には登場……しないと予想します。話がめんどくさくなるので。
義尊、常尊の二人は生涯妻帯しなかったため、義昭の嫡流はここに絶えてしまったのでした。
※関連記事:
『豊臣兄弟!』信長の勝利に見える小谷落城…実は豊臣秀吉が戦局を動かした“出世の原点”だった!
天正元年(1573年)、戦国時代に起きた小谷城攻めでは、織田信長の総攻撃によって浅井長政が滅ぼされたという説明が一般的です。大河ドラマ「豊臣兄弟!」 第17回「小谷落城」でも描かれていました。…
※参考文献:
- 奥野高広『足利義昭』吉川弘文館、1990年1月
- 山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』ミネルヴァ書房、2019年12月

