どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは:2ページ目
「どうした秀吉?」その1.豊臣秀次切腹事件
秀吉から関白職を譲られた甥の豊臣秀次は、1595年(文禄4年)6月末、謀反の疑いをかけられ、高野山で自刃しました。いわゆる「豊臣秀次切腹事件」です。
この事件の真相については、当時から江戸時代にかけてさまざまな説が語られてきました。淀殿との間に秀頼が誕生したことで秀次が障害になったとする「排除説」、秀次が「畜生関白」と呼ばれるほどの非道を重ねていたとする「暴君説」、さらには秀次が無実を訴えるため、秀吉の意向に従わず自ら命を絶ったとする「無罪説」などです。
しかし史実として確認できるのは、秀次が自害した後、秀吉がその一族をことごとく処断し、さらに秀吉に古くから仕えてきた秀次与力の大名たちにまで粛清の手を広げた、という事実です。
無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相
不自然な通説豊臣政権の2代関白・豊臣秀次の切腹は紛れもない史実です。その1週間前の文禄4年(1595年)7月8日、従者数人を連れた秀次は京都の聚楽第から南郊・伏見城に秀吉を訪ね、その足で紀…
もし仮に、将来において秀頼が豊臣家を継ぐにあたり、秀次の存在が脅威になり得ると秀吉が判断し、そのために秀次と妻子を皆殺しにしたのだとすれば、それはやはり「どうした秀吉?」と問いかけたくなります。
殺された秀次の男子は4名いたと伝えられています。当時は幼児の死亡率も高く、秀頼が無事に成長する保証は決してありませんでした。かつて石松丸や鶴松を幼くして失った秀吉であれば、その現実を痛いほど理解していたはずです。
秀次の男子たちは、ただでさえ一族不足の豊臣家にとって、きわめて貴重な血筋でもありました。また、秀頼が成人するまで秀次が関白として政権を支えていれば、豊臣家の基盤はいっそう強固になり、豊臣家の存続可能性も高まっていたと考えられます。
そのように考えると、秀次という存在は、豊臣政権の実情からすれば、絶対に失ってはならない人物だったのです。

