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どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは

どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは:3ページ目

「どうした秀吉?」その2.家康の関東国替え

戦国乱世を統一した豊臣秀吉といえども、豊臣の天下を脅かしかねない有力大名は少なくありませんでした。その中でも、自らの死後、最大の脅威となり得るのが徳川家康であることを、秀吉は十分に認識していたはずです。

それにもかかわらず、家康に対する処遇は余りにも寛大に過ぎたのではないか、そんな思いも浮かびます。

たとえば1590年(天正18年)、天下統一を決定づけた北条氏政・北条氏直征伐ののち、150万石に満たなかった家康の所領を関東へと国替えし、250万石へと大幅に加増しました。

この結果、家康の動員兵力は従来のおよそ4万から、7万5千を超える規模へと膨らみます。秀吉が北条征伐に際して動員した兵力が約20万であったことを思えば、自らの命による国替えで家康に7万を超える軍事力を与えたことは、やはり失敗であったといえるでしょう。

もしそこに十分な警戒がなかったとすれば、これもまた「どうした秀吉?」と感じてしまうのも無理はありません。

さらに朝鮮出兵の際には、秀吉は家康に名護屋城での留守居役を命じています。その結果、秀吉子飼いの大名たちが海を渡って消耗していくなかで、家康は莫大な兵力をほぼ温存することになりました。

もちろん、これは家康が自ら望んだ配置というより、あくまで秀吉の意向によるものだったのです。

4ページ目 「どうした秀吉?」その3.朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

 

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