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『豊臣兄弟!』息子3人を失い一族すべて処刑…豊臣秀吉の姉・とも(宮澤エマ) 激動の生涯

『豊臣兄弟!』息子3人を失い一族すべて処刑…豊臣秀吉の姉・とも(宮澤エマ) 激動の生涯:3ページ目

本当に“病”か?次男・三男が相次いで亡くなる不幸

天下人の姉として百姓から栄光の人生を掴んだように見えたともですが、三人の息子を相次いで失うという、“母”としては最悪の悲劇を迎えます。

まず、文禄元年(1592)のこと。次男の小吉・秀勝は、文禄元年に起きた「文禄の役」で、朝鮮国の巨済島に渡るも病を発症し、24歳の若さで陣中にて亡くなってしまいました。離れた異国の地で病に倒れた息子を思う、母親の心中はいかばかりだったことでしょう。

さらに、文禄4年(1595)4月。秀長の養子として大和中納言を務めていた三男の秀保が不可解な死を遂げます。享年わずか17歳。史料によると吉野・十津川温泉で湯治を行っていたところ、病が悪化して死亡したという話です。秀保の死因は複数の説があります。

常日頃、秀保に理不尽な仕打ちを受けていた小姓の恨みが爆発。秀保に抱きつき、二人もろとも川に飛び込み溺死した説や、殺生を禁じる池で魚を獲って食べたために土地の神の怒りに触れて溺死したなど。ただし、これらは、「後世に作られた俗説」という見方のほうが強いようです。

さらに、秀吉は、秀保の死を悼む様子を見せなかったこと、長男の秀次に葬儀を密かに済ませるよう命じたことなど不可解なことも多く、“病死ではなく政治的な意図が絡んだ事件”との説も。

ともは北政所(寧々)に陳情、やっと正式な葬儀を行うことができたそうです。

「秀次事件」で長男は切腹、一族すべてが処刑され

さらに、三男の秀保の死からわずか三ヶ月後の文禄4年(1595)7月。「秀次事件」が起こります。

秀次は「殺生関白」と言われるほど暴力的な人格(これも後世に作られた人物像という説あり)という噂があったから、後継者を秀次から我が子・秀頼に変えようと考えた秀吉。

「秀次が謀反を企てている」という讒言が耳に入り、秀次を高野山に追放します。

弁明も許さなかった秀次は出家するも「賜死(しし)/死刑の一種」が下され、自害してしまいます。(「秀次事件」の詳細は諸説あります)

無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相

不自然な通説豊臣政権の2代関白・豊臣秀次の切腹は紛れもない史実です。その1週間前の文禄4年(1595年)7月8日、従者数人を連れた秀次は京都の聚楽第から南郊・伏見城に秀吉を訪ね、その足で紀…

さらに、秀次の妻子、侍女、乳母までおよそ30人ほどが処刑されてしまいました。

そのうえ、秀次が見染めて側室へと所望され京都に出向いてきた、最上義光の娘で“東国一の美少女”と名高かった駒姫も、犠牲に。

都に到着したばかりにもかかわらず、“秀次の側室候補”というだけで、三条河原で15歳の若さで処刑されたのでした。

(淀殿がこの話を聞いて“駒姫の処刑は取り消すよう”秀吉に申し入れ、急使を出すも間に合わず、駒姫は処刑されてしまいました。)

あまりにも残酷な出来事の連鎖。ともは処刑を免れたものの、夫の三好吉房は、所領没収、讃岐国に流されて軟禁されたのでした。

ともは、相次いで自分の息子全員を失い、その縁者も失い、夫とは離れ離れになり、すべてを失ってしまいました。

4ページ目 仏門に入り豊臣家の滅亡を見届け92歳まで生きたとも

 

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