『豊臣兄弟!』息子3人を失い一族すべて処刑…豊臣秀吉の姉・とも(宮澤エマ) 激動の生涯:2ページ目
ともは、ごく普通の生活を送るはずが…
姉・ともは、天文2〜3年(1533〜34年)頃、尾張中村(現在の名古屋市中村区)にて、足軽の木下弥右衛門となかの娘として誕生。4人兄弟姉妹の長女で、秀吉とは2歳違いだったそうです。
9歳年下の妹あさひが誕生した年に父親が亡くなったため、子供の頃から母の手伝いをしつつ弟妹たちの面倒をみてきたのでしょう。
ともは、大人になって弥助(のちの三好吉房)と結婚します。史実では、弥助の姓や出自などについては多くの説があり、実像ははっきりしていないそうです。
史料によると、弥助の職業は、雉などの鳥を飼いならし大名の娯楽だった「鷹狩り」の獲物として準備する「綱差(つなさし)」や馬貸し業を営んでいた、という説もあります。
どのような人物だったかはわかりませんが、ドラマで描かれているようにしっかりもので気丈なともと一緒になり、ごく普通の暮らしを営んでいたのではないでしょうか。
もし、ともが武家の姫として生まれたのであれば、状況がめまぐるしく変化する戦国時代で、“政争の駒”として自分が使われることになる覚悟もできていたでしょう。
けれども、生まれてからずっと百姓仕事に勤しんできたごく普通の女性である彼女は、秀吉の出世にともない、運命の渦に飲み込まれていくのでした。
結婚して35歳〜45歳で3人の息子を授かる
ともは、35歳頃で長男の秀次(治兵衛)、翌年には秀勝(小吉)、その10年後の45歳頃に秀保(辰千代)と、三人の息子を産みました。
戦国時代の出産年齢は、平均的に15歳〜24歳だったそうです。今よりもはるかに出産は高いリスクをともなう時代に、35歳〜46歳にかけて3人の子を産むという異例の出産歴を持っている人なのでした。
その理由に関しては、“金銭的に余裕がなく子供を出産し育てるどころではなかった”という説が一般的なようです。
幼い弟妹たちの面倒をみてきたともは、三人の子育てもお手のものだったことでしょう。
彼らが幼い頃は、 “母親”としての充実した平穏な時間を送っていたかもしれません。けれども、その生活は長くは続かなかったのでした。
秀吉は、織田信長のもとで頭角を現していき、さらに、本能寺の変で信長が亡くなってからは天下統一へと突き進みます。それに伴い親族もまた重要な役割を担うようになりました。
天正19年(1591)、ともが57歳頃、長男・秀次は関白職を秀吉から譲られて、一家は秀吉の政庁兼邸宅の聚楽第に移ります。この年、秀吉は53歳で淀殿(茶々)との間に授かった、嫡子・鶴丸を病でわずか数えの三つで失うという不幸に見舞われてしまいます。
ともの三人の息子は、長男の秀次・次男の秀勝は秀吉の養子に、三男の秀保は秀吉の弟、秀長の養子となったのでした。
そして、秀次は、正式に秀吉の後継者となり関白に……とも夫婦にとっては最大の栄誉と思われる出来事で、これから輝かしい未来が待っているのかと思いきや、運命はここで大きく変わってしまいます。
聚楽第で政務を執り仕切っていた秀次でしたが、秀吉と淀殿の間に豊臣秀頼が誕生して、状況は一変してしまうのでした。
3ページ目 次男・三男が亡くなり、長男は切腹、一族すべて処刑

