ペリーは提督ではない?“黒船”という名称も実際は…ペリー艦隊の誤解と意外なトリビアを解説:2ページ目
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「黒船」という名称も実際は…
次に「黒船」という呼び方についても見直してみましょう。多くの人がペリーの船を指す専用の言葉だと思っているかもしれませんが、実際はそうではありません。
「黒船」という呼称は安土桃山時代から使われており、外国の大型帆船全般を指していました。江戸幕府もポルトガル船を「黒船」と呼んでいた記録が残っています。
なぜ「黒船」と呼ばれたのかというと、船体に防水・防腐のためのピッチ(タール状の物質)が塗られていて黒く見えたからです。これは当時の造船技術では一般的な処理でした。
また、ペリー艦隊についてもよくある誤解があります。来港した4隻すべてが蒸気船だったと思われがちですが、実際は蒸気船2隻と帆船2隻の組み合わせでした。
騙されたペリー
まだあります。ペリーの航路についてですが、彼は太平洋を直接横断してきたわけではありません。
実際に彼が通ってきたのは、大西洋からアフリカ南端の喜望峰を回り、インド洋、東南アジア、中国を経由して琉球に到達するという長大なルートでした。
琉球での出来事も興味深いエピソードがあります。ペリーは首里城の正殿への入城を強く要求しましたが、琉球側の巧妙な対応により、実際には北殿に案内されました。
しかも、偽の行政機関と役人を用意して対応させたのです。ペリーはこの事実に気づかず、まんまと騙されてしまったのです。そんな、ちょっと間の抜けたところもあったんですね。
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参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:Wikipedia
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