次回『べらぼう』で平賀源内生存のウワサ作戦の舞台「曽我祭」とは?写楽×曽我祭=仇討ちなるか?:2ページ目
そもそも曽我兄弟の仇討ちとは?
曽我物の題材となっている曽我兄弟の仇討ちとは、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)5月28日に発生した仇討ち事件。実行したのはこちらの兄弟です。
兄:曽我十郎祐成(そが じゅうろう すけなり)
承安2年(1172年)生~建久4年(1193年)5月28日没(享年22歳)
幼名は一万丸(いちまんまる)。5歳となった安元2年(1176年)に父・河津祐泰(かわづ すけやす)を工藤祐経(くどう すけつね)に殺されてしまいました。母が曽我祐信(すけのぶ)と再婚したため曽我姓を名乗り、弟と共に復讐を誓います。
建久4年(1193年)に鎌倉将軍・源頼朝らが富士の巻狩りへ訪れた際、仇敵の工藤祐経も同行している情報を得て仇討ちを決行。見事に祐経を討ち果たすも、仁田忠常(にった ただつね)に討ち取られてしまいました。
弟:曽我五郎時致(そが ごろう ときむね)
承安4年(1174年)生~建久4年(1193年)5月29日没(享年20歳)
幼名は筥王(はこおう)。わずか3歳で父を殺され、兄と共に復讐を誓いました。
仇討ちには成功したものの兄を討たれ、ただ一人で源頼朝の宿所へ殴り込むも、御所五郎丸(ごしょの ごろうまる)に取り押さえられてしまいます。
翌5月29日に訊問を受けるも、堂々とした態度から頼朝は感心。赦免してはどうかと提案しますが、遺族の訴えにより処刑されました。
※参考記事:
日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟の仇討ち」父の復讐に生きた兄弟の結末は…
……永年の苦節を耐え忍んで、ついに父親の仇を討った息子たち。命を捨てて孝行の志を遂げた兄弟の物語は人々に語り継がれ、日本三大仇討ち(ほか赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討ち)の一つとなったのです。
終わりに
平賀源内はじめ罪なき人々の「仇討ち」なら、曽我兄弟の「仇討ち」成功を祝う曽我祭はまたとない好機……ということで、果たして蔦重たちの作戦は成功するのでしょうか。
予告編では「傀儡好きの大名」こと一橋治済(生田斗真)が又してもお忍び姿で蔦重に迫っているようですが……。
再びタッグを組んだ蔦重と歌麿、そして「チーム写楽?」の活躍に期待しましょう!
※参考文献:
- 梶原正昭ら編『軍記文学研究叢書11 曽我・義経記の世界』汲古書院、1997年12月
- 坂井孝一『歴史文化ライブラリー107 曽我物語の史実と虚構』吉川弘文館、2000年12月


