『べらぼう』歌麿と蔦重、“二人の男の業と情”因果の果てに「写楽」の絵が誕生!?史実を元に考察
宿怨を乗り越え、平賀源内の仇討ちに誘われた蔦重(横浜流星)。拒否する選択肢を断たれた以上、協力するよりありません。
蔦重に課せられた任務は「平賀源内がまだ生きている」と評判を広めること。それならいっそ、うんとふざけて大騒ぎしてやろう……おていさん(橋本愛)の献策から、曽我祭りに寄せた浄瑠璃本と役者絵のプロジェクトがスタートしました。
もし源内が生きていたら、どんな画号を名乗っただろうか……ありのままを「写」すのが「楽」しくてしょうがない……写楽斎(しゃらくさい)に決まりです。
一方で蔦重と決別した歌麿(染谷将太)は、何も言わない本屋たちに苛立っていました。彼らは浮世絵に対するこだわりも何もなく、ただ歌麿の名さえ入っていれば売れるから、何も言う事はありません。
蔦重よりも優れた本屋はたくさんあるけど、蔦重ほど歌麿の絵に情熱を注ぐ本屋は二度と現れまい……おていさんの言葉に心動かされ、歌麿は再び蔦屋へ戻って来たのでした。
「二人の男の業(ごう)と情(じょう)、因果の果てに生み出される絵というものを、見てみたく存じます」
かくして再び手を組むこととなった?蔦重と歌麿は、どんな絵を生み出すことになるのでしょうか。
そんな第45回放送「その名は写楽」今週も振り返ってまいります。
※関連記事:
【べらぼう】蔦重が世に送り出した東洲斎写楽のライバル・歌川豊国とは?気になる勝負の結果は…
『べらぼう』実は写楽は外国人!?謎の浮世絵師・東洲斎写楽はオランダ人「シャラック」だった説
写楽(東洲斎写楽)とは何者?
劇中では平賀源内?として登場することになる写楽こと東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)。
寛政6年(1794年)5月から寛政7年(1795年)1月にかけて、約10か月間(閏11月を含むため)で145点ほどの作品を世に出しました。
永らく謎の絵師とされてきましたが、その正体は斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべゑ)という能楽師とされています。
東洲斎とは江戸の東にある洲すなわち八丁堀を指し、写楽斎の名は劇中で言及される通り「しゃらくせぇ(洒落臭い)」でしょう。
ありのままを「写」すのが「楽」しくてしょうがない……劇中でも言及されていた通り、写楽の画風はリアリティこそが売りでした。
よくも悪くも被写体の個性を最大限に強調(誇張)して描き出す点に特色があり、歌麿に去られた蔦重が、新たな看板絵師として売り出したのです。
が、ファンからすれば役者の理想を描いてほしいのであり、リアリティを重視した写楽の絵は購買意欲を掻き立てられませんでした。
それで蔦重は写楽を引っ込め、歌麿との関係修復を図ったのですが……果たして本作の写楽は、やはり歌麿が務めるのでしょうか。



