大河『豊臣兄弟!』秀吉が唯一信じた男!豊臣秀長が「天下一の補佐役」と称された理由【後編】:3ページ目
秀長は歴史を劇的に変え得る重みをもった人物
秀長が豊臣政権を支える『天下一の補佐役』と称された背景には、当時の上級武家ではきわめて珍しい、兄弟間の深い信頼関係がありました。言い換えれば、それは一蓮托生ともいえる結びつきであり、その根底には、彼ら兄弟が共有していた出生にまつわる秘密の存在も影響していたのかもしれません。
いずれにせよ、秀吉にとって秀長は、単に頭の切れる有能な弟にとどまらず、「決して自分を裏切らない」と確信できる、唯一無二の存在だったのでしょう。
歴史に「もし」は禁句といわれます。しかし、もし秀長があと10年その生を永らえていたなら、日本史は大きく変わっていたかもしれません。
秀長は1591年(天正19年)、50〜52歳で没しました。その後の豊臣家には、1593年(文禄2年)の豊臣秀次一族の粛清、1592年(天正20年)から1597年(慶長2年)にかけて断続的に続いた朝鮮出兵、さらに1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いなど、重大な事件が続きます。
もし秀長が存命であったなら、秀次粛清や朝鮮出兵はともかく、秀吉亡き後に朝鮮出兵の影響から分裂していく豊臣家中を、まとめあげることができた可能性があります。
そうなれば必然的に、関ヶ原の戦いの帰趨もまったく異なるものとなっていたかもしれません。豊臣秀長とは、単なる秀吉の「補佐役」にとどまらず、歴史の流れを劇的に変え得るほどの重みをもった人物だったのです。
こうした観点から『豊臣兄弟!』をご覧いただければ、物語をより深く味わっていただけることでしょう。
※参考文献
和田裕弘著『豊臣秀長-天下人の賢弟の実像』中公新書刊

