“奇兵隊=高杉晋作”は誤解。「奇兵隊」設立の経緯と高杉の動向を並べて見える驚きの史実:2ページ目
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挙兵時も浅い関係
その後、外圧によって高杉は復活します。
1864年8月にアメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国艦隊が前年の下関砲撃事件の責任を問うて下関砲台を占領し、賠償金を要求してきました。
高杉は赦免されて、この交渉を任されます。
同時に、この時期は幕府による第一次長州征討の計画が進められている時期で、長州藩内は、幕府に従うという俗論派と、徹底抗戦すべしという正義派に分かれて対立します。
ここで俗論派が台頭して、またしても高杉は脱出し一時期福岡に逃れました。
俗論派による正義派の粛正に憤った高杉は下関に帰還し、伊藤俊輔の率いる力士隊の協力を得て、高杉に賛同する諸隊とも合流して功山寺で挙兵します。これが最初にご紹介した功山寺挙兵です。
とはいえ、この時点でも高杉は奇兵隊を掌握もしていませんし、率いてもいません。奇兵隊が参加したのは、しばらく様子見をして「高杉有利」と状況を判断してからのことでした。
こうした経緯を見ただけでも、高杉晋作は一般に思われているほど奇兵隊と関係が深くないことが分かるでしょう。
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia
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