【べらぼう】実は子だくさん!ハメられ失脚した松平定信、実際のプライベートや妻子たち:3ページ目
松平定信の子供たち
長女・松平百代子(保寿院)
- 生没:不詳
- 母親:隼姫
- 伴侶:加藤泰済(やすずみ)正室
- 実子:なし
母の実家である伊予国大洲藩主・加藤泰済(第10代)の正室となりますが、子供は生まれませんでした。
次女・松平壽子(婉姫)
- 生没:不詳
- 母親:貞順院
- 伴侶:牧野忠鎮(ただつね)正室→内藤信敦(のぶあつ)継室
- 実子:内藤信親
はじめ越後国長岡藩(新潟県長岡市など)の世嗣・牧野忠鎮と結婚するが3年後の文化5年(1808年)に先立たれてしまいます。
のち越後国村上藩(新潟県村上市)の第6代藩主・内藤信敦と再婚し、文化9年(1813年)12月22日に三男の内藤信親を生んでいます。
長男・松平定永
- 生没:寛政3年(1791年)9月13日生~天保9年(1838年)10月18日没
- 母親:隼姫
- 幼名:太郎丸
- 身分:陸奥国白河藩主→伊勢国桑名藩主
- 官職:越中守ほか
実は11日前に腹違いの兄(真田幸貫)が生まれていましたが、母親の身分によってこちらが長男・嫡男とされました。
父・定信の後継者として伊勢国桑名藩(三重県桑名市)を統治するも財政難や生田万の乱(大塩平八郎の乱の余波)などに苦しみ、48歳で世を去ります。
次男・真田幸貫
- 生没:寛政3年(1791年)9月2日生~嘉永5年(1852年)6月8日没
- 母親:貞順院
- 幼名:次郎丸
- 身分:信濃国松代藩主
- 官職:豊後守ほか
本当は長男でありながら母親の身分によって次男・庶子扱いとされ、信濃国松代藩(長野県長野市)藩主・真田幸専(ゆきたか)の養子となりました。
やがて天保の改革が始まると水野忠邦から老中に抜擢され、幕政改革の一翼を担うようになります。
松代藩政においても、佐久間象山ら洋才の持ち主を多く登用するなど改革を進めますが、晩年には方向性をめぐり重臣たちと対立するようになってしまいました。
三女・松平烈子(清昌院)
- 生没:不詳
- 母親:隼姫
- 伴侶:諏訪忠恕(すわ ただみち)正室
- 実子:諏訪忠誠(ただまさ)ほか
信濃国高島藩(長野県諏訪市)の第8代藩主・諏訪忠恕の正室として迎えられ、諏訪忠誠らを生みます。
四女・松平庸子
- 生没:不詳
- 母親:貞順院
- 伴侶:松平輝健(てるたけ)正室→前田利幹(としつよ)継室
- 実子:なし
はじめ上野国高崎藩(群馬県高崎市)の世嗣である松平輝健の正室として迎えられるも文化8年(1811年)に先立たれてしまいました。
後に越中国富山藩(富山県富山市)の第9代藩主・前田利幹と再婚。しかし子宝には恵まれず、次々と子供を生んだ側室たちに引け目を感じていたかも知れません。
五女・松平蓁子
- 生没:不詳
- 母親:貞順院
- 伴侶:松浦熈(まつら ひろむ)正室
- 実子:なし
肥前国平戸藩(長崎県平戸市)の第10代藩主である松浦熈の正室として迎えられます。
特に子供が生まれたという記録はないものの、生母不明の女児ら(日野資宗室、中山忠光室)を生んだ可能性はあるかも知れません。
六女・実名不詳
- 生没:不詳
- 母親:隼姫
- 伴侶:不詳
- 実子:不詳
『寛政重脩諸家譜』には、その存在と母親のみ記録されており、詳細は不明です。
七女・実名不詳
- 生没:不詳
- 母親:貞順院
- 伴侶:不詳
- 実子:不詳
『寛政重脩諸家譜』には、その存在と母親のみ記録されており、詳細は不明です。
八女?福姫(智徳院)
- 生没:不詳
- 母親:不詳(隼姫の可能性も?)
- 伴侶:松平定則(さだのり)正室
- 実子:なし
- 備考:三女の可能性も?
伊予国松山藩(愛媛県松山市)の第10代藩主・松平定則と結婚するも、定則は文化6年(1809年)に15歳という若さで世を去ってしまいました。
ちなみに『寛政重脩諸家譜』では定信の三女が「松平立丸(たつまる。定則の幼名)と婚約した」旨が記録されており、実は彼女が定信の三女だった可能性も考えられます。
