【べらぼう】史実では蔦重(横浜流星)とてい(橋本愛)の子はどうなった?二代目以降の蔦屋重三郎を紹介:2ページ目
三代目・蔦屋重三郎
- 生没:生年不詳~弘化元年(1844年)9月6日
- 実名:祐助
- 出身:二代目の次男
- 家族:兄・尾州永楽屋
- 戒名:得法院志雲日信士
三代目蔦重は二代目の息子、兄は尾張国へ移住して永楽屋を継ぎました。
……三代目 尾州永楽屋の弟 今の蔦屋重三郎也……
※霜傑亭越智直澄『牛の歩行』より
劇中でも初代蔦重と永楽屋東四郎(佃典彦)が仲良しだったので、その後もつながりがあったのでしょうか。
次第に経営が傾いてきたのか、天保8年(1837年)に吉原細見の株(出版権)を伊勢屋三次郎(いせや さんじろう)に売却しました。
初代蔦重が出世の足がかりとしてきた吉原細見を手放すとは、よほど追い詰められていたようです。
四代目・蔦屋重三郎
- 生没:生年不詳~文久元年(1861年)10月1日
- 実名:不詳
- 戯号:三亭春馬(さんてい しゅんば。二代目)
- 戒名:■心院義覚日慈信士
※■は判読できず。
三代目とのつながりは不明ですが、傾きつつあった蔦屋耕書堂を建て直すため、四代目を襲名しました。
しかし奮闘虚しく、幕末の文久元年(1861年)に蔦屋耕書堂は板元を廃業。安永2年(1773年)の創業から80年以上に及ぶ歴史に幕を下ろしたのです。
その呵責なのかは分かりませんが、同じ年に世を去ってしまいました。
ちなみに戯作者や狂歌師としても活躍しており、プロデューサーよりもクリエイター向きの人材だったのかも知れません。

