手洗いをしっかりしよう!Japaaan

『べらぼう』庶民、幕閣、大奥から総スカンの松平定信!祖父・徳川吉宗との改革の違いを徹底比較[後編]

『べらぼう』庶民、幕閣、大奥から総スカンの松平定信!祖父・徳川吉宗との改革の違いを徹底比較[後編]:2ページ目

重商主義の田沼を憎むあまり、現実と乖離した寛政の改革

続いて松平定信の「寛政の改革」の主な政策を見てみよう。

吉宗を合理主義者とすると、孫の定信は究極の理想主義者だ。さらに彼は、一時は将軍候補として名前が挙がるほどのエリートであった。ある意味では「純真無垢」で真っすぐな人物で、不正や汚職を徹底的に憎む正義感の強い人でもあったともいえよう。

そんな定信の脳裏には常に「田沼意次への憎しみ」があり、田沼の改革を全て否定するところから、寛政の改革は始まっていた。

そのため定信の治世では、田沼意次を徹底的に悪者に仕立て上げることに専念した。世の中に賄賂が横行するのはすべて田沼のせいであり、意次こそが「賄賂の帝王」だというようなレッテルを貼ったのである。

そして、その田沼に賄賂を贈ったのは商人であり、彼らは銭儲けばかりを追求する卑しい存在だと決めつけたのだった。

定信の政策で最も有名なのが「棄捐令(きえんれい)」である。これは、生活に困窮する旗本・御家人を救済するため、札差からの借金の一部を帳消しにし、あるいは低利で年賦償還することを命じた法令であった。

札差とは、旗本・御家人に代わって蔵米の受け取りや換金を行い、その手数料で利益を得ていた商人である。しかし「棄捐令」によって貸し渋りが生じ、貧しい旗本・御家人の中には年を越せない者まで現れた。このため幕府は、慌てて札差への資金供給を行う事態となった。

また、飢饉に備えて農村に米を備蓄させる「囲米(かこいまい)」も、よく知られた政策である。当時の農村は、天明の大飢饉などの影響で離農者が多く、彼らは都市に流入して貧民化し、江戸などの大都市に集中していた。

定信は、農村人口の減少が年貢米の減収につながることを恐れ、こうした人々の帰農を促そうとした。自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』の中で、定信は次のような思惑を語っている。

「倹約令や風俗統制令を発すると、江戸の景気は悪化し、商人や職人は困窮する。その結果、奉公人の給与も下がり、江戸では暮らしていけなくなる。すると帰農者が増え、地方の復興が成し遂げられるだろう。」

しかし、これは理想論者・定信ならではの思考回路が生んだ、現実とは乖離した誤算であったのだ。

このような定信の改革に嫌気がさした庶民の間で、有名な狂歌が広まった。それが、

「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

である。

こうした政権への反発を抑え込もうと、定信は「寛政異学の禁」を発令した。もともと朱子学の信奉者であった定信は、祖父・吉宗の時代に花開いた蘭学をはじめ、同じ儒学であっても陽明学や古学を認めず、身分秩序を重んじる朱子学のみを正統とする方針を打ち出した。

つまり、「上の者の言うことには逆らうな」という姿勢を徹底させたのである。だが、このような「寛政の改革」は長続きしなかった。

庶民はもちろん、幕閣・大奥、旗本・御家人からも総スカンを食らった松平定信は、やがて将軍家斉と衝突して失脚してしまうのである。

『べらぼう』松平定信(井上祐貴)を転落へと追い詰めた事件とは?正論の押し付けが仇となり一橋治済とも対立

白河の 清きに魚の すみかねてもとの濁りの 田沼こひしき【歌意】白河(松平定信)は清廉潔白すぎて息苦しい。少しくらい濁っていても、田沼(意次)の時代が恋しいなぁ……。そんな狂歌が世に出…

※参考文献
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史』宝島社刊

※トップ画像:NHK大河べらぼう公式サイトより

 

RELATED 関連する記事