『べらぼう』寛政の改革は失敗? 松平定信と祖父・徳川吉宗の改革を徹底比較[中編]:2ページ目
幕府財政を緊縮するため大奥にメスを入れる
吉宗と定信が打ち出した質素倹約策の中で、やり玉に挙げられたのが「大奥」である。
吉宗は、大奥の大規模なリストラを断行した。大奥とは、江戸城内における将軍の私生活の場であり、その始まりは三代将軍家光の乳母・春日局が、世継ぎ誕生を願って側室候補の女性たちを江戸城に集めて住まわせたことに由来するとされる。
大奥はその後、役割やしきたりが時代とともに変化していったが、吉宗が江戸城に入った頃には、幕府財政の約25%を浪費する存在となっていた。
当時、大奥には将軍の側近くに仕える女中から下働きの女性まで、約4,000人が在籍していたが、吉宗は段階的にリストラを進め、最終的には約1,300人にまで削減している。
この際の有名な逸話として、リストラの対象は若く美しい者からとされたというものがある。そうした女性ならば、大奥を去っても嫁ぎ先や働き口が見つかりやすいだろうという、吉宗なりの配慮であったと伝えられている。
ともあれ吉宗は、大奥の人員を減らすことにより、その人件費を抑え、予算削減を実現させたのである。
一方、定信も吉宗に倣い、大奥の贅沢さに目を付けた。吉宗がコストカットを行ったものの、寛政の改革以前には大奥の年間経費は20万両にのぼった。仮に1両を12万円として換算すると、実に240億円に相当する。
この無駄遣いをどれだけ減らせるかが、改革の鍵だと考えた定信は、大奥の経費を3分の1にまで削減した。しかし、贅沢に慣れきっていた大奥の女性たちは、定信のやり方に憤懣やるかたなかったという。
そして、この大奥の不満がやがて、定信失脚の一端となっていくのである。
それでは、次回[後編]では、「享保の改革」と「寛政の改革」の相違点について考察していこう。
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『べらぼう』庶民、幕閣、大奥から総スカンの松平定信!祖父・徳川吉宗との改革の違いを徹底比較[後編]
※参考文献
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史』宝島社刊


