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『べらぼう』寛政の改革は失敗?松平定信が憧れた祖父・徳川吉宗との違いは何だったのか?[前編]

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吉宗と定信の出自に対する共通点と異なる点

徳川吉宗も松平定信も、ともに徳川将軍家の血筋を色濃く継いでいることに変わりはない。だが、一つ大きな違いがある。それが両者の生い立ちだ。

吉宗が初代将軍・家康の曽孫でありながら、母の出自が武家ではなく身分の低い家柄(殿様の風呂焚きをする下女)であったため、将軍どころか紀州藩主となることさえ困難視されていた点である。

父の意向により吉宗は幼少期、家臣の家で養育されていた。しかし、紀州藩主であった二人の兄(綱教・頼職)と父・光貞が、わずか半年の間に相次いで病死するという異常事態が発生する。これを受け、1705年(宝永2年)、22歳の若さで紀州家を相続し、藩主に就任することとなったのだ。

祖父・吉宗の生い立ちと比べれば、孫の定信の母は御三家筆頭である尾張藩の重臣の娘であり、母方の血筋には何の問題もなかった

定信は1759年(宝暦8年)、吉宗誕生から75年後に生を受けた。6歳のときに重病を患い危篤に陥ったものの、治療によって一命を取り留めるなど、幼少期は病弱であったと伝わる。

しかし、幼名の「賢丸(まさまる)」が示すように、幼い頃から聡明で知られ、田安家はもちろん、第10代将軍・徳川家治の後継者、すなわち将軍の候補者となることを期待されて育った。

このように、定信は祖父・吉宗と比べると、はるかに恵まれた「お坊ちゃん育ち」であったのだ。

定信が自らの将来をどのように考えていたかは明らかではない。ただ、幼い頃よりいずれは幕府の要職に就き、政治を動かしてみたいという野望を抱いていたとしても不思議ではない。

定信は17歳となった1774年(安永3年)、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まった。その後、白河藩の家督を相続すると、田沼意次(渡辺謙)に賄賂を贈るなど、家格の上昇を図る行動をとっている。このことからも、彼の野心はうかがえるだろう。

さて、徳川吉宗と松平定信の出自についての紹介はこのあたりにとどめたい。

しかし、幼少期を家臣の家で過ごした吉宗と、田安家という大名格の家から一歩も出ることなく育った定信とでは、ものの見方や価値観が異なるのは当然である。

ただし、一藩を預かる藩主ならともかく、一国を預かる将軍や老中、ことに幕政を改革する為政者としては、より広い視野や経済感覚が必要なのは言うまでもない。

子どもの頃から和歌山城下の町中を歩きまわり、ある程度の庶民感覚をもっていた吉宗と、屋敷の奥で大切に育てられた定信とでは、どちらが幕政改革を担う為政者としてふさわしかったかは言うまでもないだろう。

『べらぼう』では、恋川春町の黄表紙が摘発された際、「定信様に会いにいって腹を割って話をしたい」という蔦中に、鶴屋喜右衛門(風間俊介)が「田沼様と違い、世の老中とは簡単に町方と会ってはくれないものだ」と語ったのは、まさに真実なのである。

こうした違いは両者の政治思想に表れ、それぞれの改革にも反映されていくことになる。

次回[中編]では、享保の改革と寛政の改革の政策面における共通点について話を進めていく。

[中編]の記事はこちら↓

『べらぼう』寛政の改革は失敗? 松平定信と祖父・徳川吉宗の改革を徹底比較[中編]

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)を中心とする仲間たちが「チーム蔦中」を結成し、彼らが「ふんどし野郎」と呼ぶのが、幕府の筆頭老中・松平定信(井上祐貴)だ…

※参考文献
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史』宝島社刊

 

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