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盲目的な愛の果てか?歴史的冒涜か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題とは【前編】

盲目的な愛の果てか?歴史的冒涜か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題とは【前編】:3ページ目

疫病・貴族間の抗争など国難の中で天皇に即位

阿倍内親王、すなわち後の孝謙天皇が皇太子となったのは20歳の時である。この時、父・聖武天皇と母・光明皇后はいずれも37歳という働き盛りにあった。

しかし、聖武朝のこの時期は大きな動乱に見舞われていた。

前年の737年(天平9年)、天然痘が大流行し、朝廷の中枢を担っていた光明皇后の異母兄・藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)をはじめ、多くの政府高官が相次いで病死するという惨事が起きた。

当時の日本の総人口は約700万人強とされるが、その4分の1が失われた可能性もあるといわれ、まさに国難と呼ぶべき事態であった。

さらに740年(天平12年)には、藤原宇合の子・藤原広嗣が九州で挙兵し(藤原広嗣の乱)、朝廷を大きく揺るがした。この騒乱のさなか、聖武天皇は突如として伊勢国・美濃国への行幸を開始し、平城京に戻らぬまま恭仁京への遷都を断行したのである。

相次ぐ災害・疫病・戦乱に直面した聖武天皇は、深く仏教に帰依し、741年(天平13年)には国分寺建立の詔を、743年(天平15年)には東大寺大仏造立の詔を発した。

しかし一方で、彷徨うように繰り返された遷都は、朝政に大きな混乱をもたらした。為政者として不適切とも受け取られかねない天皇の行動に対して官民の反発は強まり、結局は平城京への復帰を余儀なくされることとなった。

そのような状況下、749年(天平勝宝元年)、聖武天皇は突如出家して阿倍内親王に譲位し、自らは太上天皇となった。

ここに本稿の主人公である女帝・孝謙天皇が誕生したのである。

それでは[前編]はここまで。[後編]では、孝謙天皇が道鏡の皇位擁立に動いた真相について考察する。

後編の記事はこちら↓

これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】

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