江戸時代の高利貸しの金融業者「札差」とは何者だったのか?その実態と没落
旗本・御家人専門の金融業者
『鬼平犯科帳』の「決闘」では、のちに長谷川平蔵の密偵になるおまさが、盗人の引き込み役として札差の「大月」に住み込みで働いていました。
この札差とは何かと言うと、幕臣の旗本・御家人を客とする金融業者です。江戸時代中期に商工業が発展すると、それに伴って金融業も発達していきました。こうして登場したのが札差です。
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旗本・御家人の大半の給料(緑米)は蔵米で支払われていましたが、この蔵米(給料)の受け取りや売却の代行を行っていたのが札差でした。
ところが、米の値段は年や時期によって変動します。また江戸時代全期を通じて物価は上昇していったため、旗本・御家人も経済的に困窮するようになりました。
本来、札差は代行した業務の手数料で利益を得る業者だったのですが、こうした状況を受けて、預かっている蔵米を担保に武士にお金を貸すようになります。こうして札差は金融業者になっていったのです。
札差の金利は高く、年利は15~18%だったといいます。
ところが、やがて借金を返済できない旗本・御家人も現れるようになりました。
このような中で、武士という立場を利用して借金を踏み倒そうとする者も出てきます。
一方で札差の側も、借金を返済しない旗本や御家人に対して、江戸城前で待ち伏せて借金返済を求める旗を振ったり、自宅に押しかけて玄関に居座ったりするなどしました。
訴訟の7割は金銭トラブル
享保3年(1718)の江戸町奉行所の訴訟総数は、4万7731件にのぼります。
このうち金銭訴訟は3万3037件を数え、全体の約7割に達していました。
このような状況下で、享保4年(1719)には8代将軍徳川吉宗によって相対済令が出されました。
相対済金は江戸周辺を対象とした法令でしたが、債務者が、債権者にとって回収が困難な遠隔地にいる場合は、奉行所が債権者をサポートするというものでした。
吉宗の相対済令よりも約30年前に出された寛文3年(1663)の相対済合では、6里(約24キロメートル)以上離れた遠方の債務者とのトラブルは不受理としていましたので、相対済令は、債権者保護をより強めたものといえるでしょう。
享保5年(1720)には、借金を踏み倒そうとする不埒者がいた場合には、札差は町奉行所に訴えるようにと述べています。
また、札差とよく似た金融業者に掛屋があります。掛屋は主に諸藩から大坂にある大名の蔵屋敷に送られてきた年貢米と産物を換金し、それを大名に送金する仕事をしていました。
この掛屋も札差と同様に、米を担保に貸金業を営むものも多く、このような掛屋は「大名貸し」と呼ばれました。巨万の富を築いた掛屋としては、大坂の鴻池家・平野屋・天王寺屋などが知られています。

