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弟を謀殺、父の葬儀で愚行!織田信長の天下人のイメージが覆るありえない破天荒エピソード

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桶狭間の戦い

1560年、27歳の信長の尾張統治は弟との内紛などのせいでいまだ揺らいでおり、尾張中心部と知多半島の間に位置する鳴海城、沓掛城、大高城などが東海地方最大勢力、今川氏の手に落ちてしまいました。

5月、今川義元は自ら大軍の指揮を執り尾張に向かって出陣、沓掛城に入城。やがて砦を攻撃され、どうするか紛糾した挙句、織田軍は2000人の兵で出撃。敵のいる東南の桶狭間の方面に進軍を開始しました。

13時ごろ、視界を妨げるほどの豪雨が降ります。織田軍はこの天気を味方に、今川義元に奇襲を仕掛けます。今川軍は約2万人でしたが分散していたため5〜6千人。

とはいえ人数的には1/3くらいで超劣勢の中、義元の首のみを目指して織田軍は突っ込んでいき、東海地方随一の戦国大名・今川義元を討ち取ってしまうのです!

お伽話のようなミラクルを起こした桶狭間の戦いはまさしくナンバーワン破天荒エピソード!

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大きな兵力差織田信長が今川義元を討ち取った、有名な「桶狭間の戦い」。この戦いは、具体的にどのような点が優れていたのでしょうか。[caption id="attachment_180194"…

比叡山焼き討ち

信長の破天荒エピソードはさらにエスカレートしていきます。時は10年ほど下って1568年、38歳の時に信長はとんでもない事件を起こします。

室町将軍・足利義昭を奉じて上洛し、紆余曲折を経た後、彼の天下統一を阻んだのは寺社勢力でした。中でも手を焼いたのは比叡山延暦寺。

当時の延暦寺は絶大な権力を誇り、貴族らの寄進を受け大きな領地を所有していたほか、滋賀の坂本の港を所有して通行料を得て莫大な資産を蓄えていました。それでも僧侶全員が真面目に修行しているならいいのですが、権力にかこつけて一部の僧は女色にふける生臭ぶり。

挙句、敵対する戦国大名、浅井・朝倉氏に協力して匿ったり、武装した僧兵も増加の一途、正直信長の神経逆撫でしまくっていました。

怒りを募らせた結果、1571年(元亀2年)9月に起こったのが比叡山焼き討ちでした。

延暦寺は「残らず放火」、「男女三、四千人死亡」など被害の甚大さが後世にも伝えられています(真偽に関しては諸説あり)。

破天荒で片付けるにはあまりに残虐なこの仕打ち、これ以来、信長は僧侶によって「第六天魔王」=悪をもたらすものと呼ばれるようになるのです。

3ページ目 安土城築城 〜 本能寺の変

 

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