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徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】

徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】

上野国の土豪として始まり、やがて豊臣秀吉の傘下に入り、さらに独立大名として戦国の世を颯爽と駆け抜けた真田一族

その真田一族の中でも、真田幸隆・昌幸・信繁・信幸の三代にわたる事績を紹介していく。

【後編】では、徳川家康に二度までも煮え湯を飲ませた知将・真田昌幸について、その後半生ともいえる「第二次上田合戦」以降の人生についてお話ししよう。

【前編】の記事はこちら↓

家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】

上野国の土豪として始まり、やがて豊臣秀吉の傘下に入り、さらに独立大名として戦国の世を颯爽と駆け抜けた真田一族。その真田一族の中でも、真田幸隆・昌幸・信繁・信幸の三代にわたる事績を紹介していく。…

豊臣傘下の大名として小田原征伐・朝鮮出兵に参加

「第一次上田合戦」で徳川家康を破った真田昌幸は、豊臣系大名の間で広く知られる存在となった。秀吉は、昌幸をして“表裏比興の者”と称したと伝わる。

これは、「比興=卑怯」ではなく、主君・武田氏滅亡後、小大名の真田家を独立大名として維持してきた「狡猾で策略に長けた人物」という意味での称賛だった。

ちなみに家康は昌幸を「稀代の横着者(悪賢い者)」と嫌忌し、『三河後風土記』では「生得危険な姦人(腹黒く悪賢い人物)」と畏怖したという。

こうした経緯もあってか、1585(天正13)年には、上杉景勝のもとにいた次男・信繁が、豊臣家の人質として大坂に出仕し、昌幸も豊臣家に臣従することとなる。秀吉は信繁をたいそう気に入り、小姓として側に置いたうえ、豊臣姓を名乗ることを許した

また、信繁はこの大坂で大きな成果を得た。それは秀吉の寵臣・大谷吉継の娘を妻に迎えたことであった。

翌1586(天正14)年、秀吉は京都における豊臣家の拠点として聚楽第を築城。ここで後陽成天皇を饗応し、徳川家康、織田信雄、毛利輝元ら有力大名との謁見を果たした。

この間、秀吉は四国の長宗我部氏や九州の島津氏を服従させるなど、着実に天下統一事業を進めていた。そして1589(天正17)年、ついに関東の雄・北条氏に対し宣戦を布告する。

この戦いは「小田原の役」「小田原征伐」と呼ばれるが、その発端の一つは北条氏と真田氏の所領をめぐる争いであった。

かねてより上野国の領有をめぐっては昌幸と北条氏政が対立していた。これをみた秀吉はその仲裁を行ったが、突如として北条方が真田方の名胡桃城を奪取。これに激怒した秀吉が、ついに北条征伐を決定するに至ったのである。

秀吉は、総勢23万におよぶ大軍を水陸両面から北条氏の本拠・小田原へと進軍させた。昌幸は、越後の上杉景勝や加賀の前田利家を中心とする約3万5千の北陸支隊の一部として参陣し、信之・信繁もこれに従ったとされる。

北陸支隊は、信濃・上野の国境にあり北条方の重臣・大道寺政繁が城主を務める松井田城を攻略。さらに箕輪城、鉢形城、八王子城を次々と墜とし、小田原城を包囲する豊臣本隊と合流した。

そして開戦から約4か月後、北条氏政・氏直父子はついに降伏を決断。氏政らの自尽を条件に小田原城は開城し、ここに北条氏は事実上滅亡したのである。

北条氏を滅ぼし名実ともに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる目標として中国・明の征服を掲げた。1592(文禄元)年、秀吉は九州・福岡市郊外に侵攻軍の渡海拠点として名護屋城を築き、そこに総勢19万近い大軍を集結させた。

この「朝鮮出兵」は、1592(文禄元)年から1598(慶長3)年にかけて、2度にわたって遠征軍を朝鮮半島に送り込んだもので「文禄・慶長の役」とも呼ばれている。しかし、昌幸は渡海軍には加わらず、秀吉直属の旗本衆として本陣を固めるにとどまった。

そして、1598年(慶長3年)に秀吉が伏見城で死去すると、「朝鮮出兵」も終結することとなったのである。

2ページ目 第二次上田合戦でまたしても徳川の大軍を翻弄

 

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