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徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】

徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】:3ページ目

関ケ原の敗戦で九度山配流。そこで生涯を閉じる

上田城で秀忠の大軍を翻弄した昌幸であったが、結局、関ヶ原の戦いは東軍が勝利した。

西軍の主だった将たちは家康によって処罰され、昌幸・信繁父子もその対象となった。石田三成や小西行長は処刑されたが、昌幸父子は信之の懸命な助命嘆願により、死一等を減じられ、高野山山麓の九度山に蟄居を命じられた。

上田城を徳川方に接収され配流地に向かう際、昌幸は「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と、信之に無念の胸中を語ったと伝えられている。

昌幸は信繁とともに九度山で10年を過ごした。その配流生活は、さしもの昌幸をも疲弊させたようである。信之に宛てた書状には、「此の方別儀なく候、御心安くべく候。但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候。万事此の方の儀、察しあるべく候」とある。

そして1611年(慶長16)6月4日、天下人・徳川家康を相手に一度ならず二度までも煮え湯を飲ませた稀代の知将は、その波乱の生涯に幕を下ろした享年65であったという。

4ページ目 まとめにかえて・真田昌幸の略年表

 

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