徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】:4ページ目
まとめにかえて・真田昌幸の略年表
1547(天文16)年/武田氏の本拠・甲府で誕生。(異説あり)
1553(天文22)年/武田信玄へ人質として出仕。
1561(永禄4)年/第四次川中島合戦に参戦。この時初陣か。
1566(永禄9)年/正室・山の手殿との間に長男の信之誕生。
1567(永禄10)年/同じく山の手殿との間に次男の信繁誕生。
1575(天正3)年/兄二人が戦死し、真田家の家督を継承。
1580(天正8)年/北条方の上野国・沼田城を奪取。
1581(天正9)年/武田勝頼から新府城の普請を命じられる。(異説あり)
1582(天正10)年/勝頼を岩櫃城に誘うが果たせず武田氏滅亡。
1585(天正13)年/第一次上田合戦で徳川家康を破る。
1600(慶長5)年/第二次上田合戦で徳川秀忠を破る。
1611(慶長16)年/配流先の九度山で死去。
昌幸の死後から3年後の1614(慶長19)年、大坂の冬の陣において「真田が大坂城に入城した」との知らせを受けた家康は思わず「親の方か?子の方か?」と尋ねたという。
家康のこの発言は、3年前の昌幸の死を疑っていたことを示唆する。そして、大坂入城は昌幸ではなく、信繁と知って安堵したとも伝わっている。
死してなお「表裏比興の者」として、家康を畏怖させた真田昌幸の面目躍如たる逸話であろう。
※参考文献
高野晃彰著・編集 『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ刊
