徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】:2ページ目
第二次上田合戦でまたしても徳川の大軍を翻弄
秀吉の死により朝鮮出兵は幕を閉じたが、実はこの戦いが豊臣家に大きな禍根を残すこととなった。加藤清正・福島正則ら武断派と、石田三成・小西行長ら文治派との間で対立が生じたのである。
この混乱に乗じて家康は大坂城西の丸に腰を据え、諸大名への加増や転封を独断で裁定するなどして、その権力を次第に強めていった。
こうした家康の動きに危機感を抱いた三成らは、家康が会津の「上杉景勝討伐」に出兵した隙を突いて挙兵する。これが関ヶ原の戦いであり、石田方を「西軍」、徳川方を「東軍」と称する。
この事態において真田父子は、昌幸と次男・信繁が西軍に、長男・信之は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)を正妻としていたことから東軍に属することとなった。昌幸と信繁が西軍についたのは、信繁の正室が大谷吉継の娘・竹林院であったからだ。
昌幸は信繁とともに急ぎ上田城に戻ると、中山道を西へ進軍してくる徳川秀忠率いる3万8千の大軍を、わずか5千の兵で迎え撃った。昌幸は上田城内で指揮を執り、城外の居館や寺院を砦として利用し、そこに伏兵を配置。また、外堀となる神川の水を堰き止めることで、徳川軍に備えた。
真田軍を小勢と侮った徳川軍は、一気に押し潰そうと上田城三の丸へ突入。しかし、防御を強化して複雑に縄張りされた三の丸に兵があふれ大混乱をきたし、やがてそのまま二の丸へと押し込まれるような戦況となった。
そこに大手門を開いた信繁隊が突出し、同時に各砦から伏兵が徳川軍に襲い掛かった。この攻撃に徳川軍はたまらず城下から退却。しかし神川を渡ろうとしているところに、堰止めしていた水を一気に流されたために「我軍大いに敗れ、死傷算なし」という惨状をきたしてしまった。
「第一次上田合戦」に続き、昌幸はまたしても徳川の大軍を撃破し、その知将としての名を天下に知らしめたのである。




