映画『おーい、応為』離婚、出戻り、仙人に憧れ…北斎の娘・葛飾応為(長澤まさみ)の破天荒な生涯
「悪かったな、北斎の娘で」
バツイチで実家に出戻り、偏屈な父親と小汚い長屋で暮らすお栄(応為)。当時珍しい女性浮世絵師として活躍し、時に父親さえ目を見張る才能を発揮しましたが……。
いまだ多くの謎に包まれた北斎の娘・葛飾応為(かつしか おうい)の生涯を描く映画『おーい、応為』が令和7年(2025年)10月17日(金)に公開予定です。
ついに本予告映像が解禁!長澤まさみ 主演、北斎の娘・葛飾応為を描いた時代劇映画『おーい、応為』
今回はそんな彼女の生涯をたどってみたいと思います。
北斎を超える?画才を発揮
葛飾応為は生年不詳(諸説あり)、葛飾北斎の三女として誕生しました。北斎には二男三女(一説に四女)がおり、応為は末娘だったようです。
本名は栄(えい)、人からはお栄(阿栄、応栄)と呼ばれ、書面には栄女(えいじょ)と記されます。
顔のエラが張っていたらしく、アゴが出ていたため、父からは「アゴ」だの「腮(エラ)の四角ナ女」などと呼ばれていました。ひどすぎる……。
成長して絵師の堤等明(つつみ とうめい。南沢等明)に嫁ぎますが、針仕事はとんとダメ(炊事洗濯掃除も恐らく)。そればかりか夫の画力を笑ったことで怒りを買い、離縁されてしまいました。
家事スキルや意欲はともかく、他人を笑ってしまうのはNGでしょう。こういう世渡りのまずさも、父親ゆずりだったようです。
かくして実家へ出戻った応為は父親の画業を手伝い、時には自身の作品も手がけました。
画号の応為とは、北斎が彼女に「おーい」と呼びかけたからとか、逆に彼女が北斎に「おーい」と呼びかけたからなどと考えられています。父娘が互いに「おーい」と呼びかけ合う関係が面白いですね。
お栄「まったくお父っつぁんと来たら、あたしの名前を『おーい』だと思ってんじゃないかね……いっそ画号を『応為』にしよう!」
北斎「まったくお栄のヤツめ、父親に向かって『おーい』だとよ……アイツの画号は『応為』でいいだろう!」
……と言ったかどうか。
北斎の娘と言われる女性浮世絵師の葛飾辰女(たつじょ)と画風が酷似していたことから、同一人物ではないかとも考えられています。
そんな応為について、北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と評したそうですから、よほどの腕前だったのでしょう。
また北斎に私淑していた渓斎英泉(けいさい えいせん)も、自著『无名翁随筆』にて「画を善(よく)す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評しました。
この『无名翁随筆』が天保4年(1833年)に出版されていることから、応為が天保初年ごろまでに出戻って(「父に従いて今専ら絵師をなす」状態にあった)いたことが分かります。
それから北斎が嘉永2年(1849年)に世を去るまで十数年間、偏屈な父娘は二人で暮らしていたようです。
応為自身の没年についてはよく分かっていません。安政2~3年(1855~1856年)ごろとも、慶応年間(1861~1864年)まで生きたとも言われています。


