手洗いをしっかりしよう!Japaaan

『べらぼう』実は田沼意知には息子が!意知の死後、嫡男・意明が背負った没落する田沼家の悲劇

『べらぼう』実は田沼意知には息子が!意知の死後、嫡男・意明が背負った没落する田沼家の悲劇

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」皆さんも楽しんでいますか?

劇中では誰袖(福原遥)を身請けする決意を固めた田沼意知(宮沢氷魚)は、幸せを目前にしながら佐野政言(矢本悠馬)に斬られてしまいました。

『べらぼう』胸が詰まる“桜”の演出…田沼意知と誰袖の幸せな桜、悲劇を招いた佐野の枯れ桜【前編】

「よろしく頼む。蔦屋重三郎」田沼意知(宮沢氷魚)と蔦屋重三郎(横浜流星)の心が通い合い、信頼という絆が芽生えた瞬間でした。大河「べらぼう」の27回、『願わくば花の下にて春死なん』。…

いかにも初々しい感じですが、実は意知には既に嫡男がおります。物語がややこしくなるため、おそらく大河ドラマには登場しないでしょう。

今回は田沼意知の嫡男・田沼意明(たぬま おきあき)について紹介。その生涯は、実に不運なものでした。

斜陽の田沼家を継承

田沼意明は安永2年(1773年)、田沼意知の長男として誕生しました。母親については詳しくわかっていません。

兄弟には田沼意壱(おきかず)・田沼意信(おきのぶ)らがいます。

12歳となった天明4年(1784年)に父・意知が暗殺(3月24日襲撃、4月2日死亡)。そのため、祖父である田沼意次の世継ぎに指名されました。

やがて元服し、織田信浮(おだ のぶちか。出羽高畠藩主)の長女・喜姫(よしひめ)を正室に迎えます。

天明6年(1786年)に祖父の意次が失脚したため、その所領である遠江相楽藩(静岡県牧之原市)は最盛期の5万7千石から大幅に減封。天明7年(1787年)に意明が家督を継いだ時には2万7千石と半分以下になっていました。

意次に代わって政権を握った松平定信の追い討ちは続き、意明は陸奥下村藩(福島県福島市)1万石へ転封されてしまいます。

しかも自分の所領であるにも関わらず、現地へ赴くことは許されません。力を蓄えて謀叛を起こすことを警戒されたのでした。

また大名でありながら、将軍・徳川家斉への御目見(おめみえ)や官位の叙任も受けられない有り様です。

やがて寛政5年(1793年)に定信が失脚すると所領への下向や叙任(従五位下、下野守)などが許されるようになりました。

寛政8年(1796年)に大坂定番(または加番)を拝命します。これらの役職は大坂城の番役でしたが、意明は大坂へ赴任することはありませんでした。

そして同年9月22日、24歳で世を去ります。喜姫との間に子供はおらず、弟の田沼意壱を養子として家督を継がせました。

2ページ目 田沼家の没落はどのように描かれるのか?

 

RELATED 関連する記事