江戸時代の寺社は賭博天国。アウトローから博徒へ、江戸の闇社会の実態とは?【前編】
アウトローの系譜は「博徒」へ
江戸時代初期のアウトローは「旗本奴」「町奴」が主なもので、彼らは「かぶき者」「男伊達」「侠客」などと呼ばれました。
旗本奴・町奴が争うことでいわば対消滅し、さらに幕府の取り締まりもあって消えていくと、次に現れたのは賭博の稼ぎで生計を立てる「博徒」で、これがやくざの主流になりました。
博徒は「通り者」とも呼ばれましたが、これは「筋が通った者」「遊里で遊び慣れた人」などのニュアンスも含む言葉でもあります。
上級クラスの通り者は茶の湯や俳諧にも通じていました。今で言うインテリヤクザのようなものでしょうか。
その一方で、遊女屋に女性を売り飛ばしてピンハネする下賤な者もいました。彼らの暗躍ぶりはかなり目に余るものだったようで、江戸時代を代表する儒学者である荻生徂徠も、著作で嘆くほどでした。
当時の江戸では、それほど「通り者」が跋扈していたのです。
数々の記録と迫真のフィクション
享保年間(1716~1736)に出された禁止令には、博徒の暮らしぶりが次のように記されています。
「賭博を生業とする者は立派な邸に住み、派手な服を着て、観劇に出かけては酒宴に興じていた。若者は彼らに憧れを抱き、取り締まる役人たちは賄賂を受け取って見ぬふりをした」
また蘭学者・杉田玄白の著書『後見草』によると、盛り場である千住や浅草では、賭け事に没頭する人の群れが夜間でも1里(約4キロメートル)近く続いていたとのことです。
その後、寛政の改革(1787~1793年)で規制が強化されたものの、賭博を完全に排除することはできませんでした。賭博は、江戸の文化としてすっかり浸透してしまっていたのです。
池波正太郎の『仕掛人・藤枝梅安』にも、大名屋敷の中間部屋にさまざまな人たちが出入りして、博打に興じるシーンがあります。
家臣たちもそれを見て見ぬふりをして、当たり前のこととして受け止められていたとして描写されていますが、あれは迫真の描写と言えるでしょう。


