江戸時代のキャリア官僚「町奉行」過労死も招くほど驚きのブラック労働だった理由:2ページ目
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ストレスフルで過労死
将軍が能を見学する行事「町入能」では、名主・家主ら約5000人の入城が許され、町奉行の良し悪しを自由に口にすることが許されていたとされています。
町奉行はプレッシャーがかかるストレスフルな役職であり、そのため短期間で交代する者や在職中に死去する者も少なくありませんでした。
例えば、『鬼平犯科帳』に登場する北町奉行・初鹿野河内守は実在の人物ですが、この人は町奉行在職中に死去しています。おそらく過労死のようなものでしょう。
大岡忠相のように20年近くにわたって町奉行を務めた例もありますが、おおむね2~3年、長くても5~6年で異動することがほとんどでした。現在でいうところのキャリア官僚のようなものです。
一方、与力や同心は昇進することはありませんが、実質的に世襲となっており、職務に関するスペシャリスト集団でした。
町奉行は、主に幕閣や関係部署との調整や折衝が主な役割でした。それだけに、人間関係の板挟みでストレスを抱えていたであろうことは想像に難くありません。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia
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